金日成はブルガリア首相に「南朝鮮のマルクス党である統革党の人数は多くない。約3000人ほどだ。統革党は各地に中央組織が作られている。統革党員はいくつかの工場に代表を置いているが、不法化され、活動が弱くなった。統革党党員が(南朝鮮の)労働者や農民の中で活動するようにし、公開的な反朴正熙活動をさせた結果、指導部が瓦解された。このため、われわれは統革党員に南朝鮮の合法政党に参加することと、労働者・農民への影響力を増大させるよう指示した。南朝鮮の民主化と統一のため闘争する主要勢力は学生だ。彼らは大規模な反朴正煕デモを組織化している。彼ら皆が活発な闘争を行っている」
以上は、米国の共産圏資料を収集翻訳してきたウッドロ・ウィルソンセンターのホームページに掲載されている資料だが、ブルガリア駐在の東ドイツ大使館が入手した情報という。金日成のこの言及は、誇張された自慢話の可能性もある。だが、金日成とジープコフ間の対話で見られるほど、平壌側が統革党に対し、北側に同調するだけでなく、直接的に指示を受ける左翼革命組織とみなし、格別に考えたことは明らかだ。北側が韓国内の革命組織とその構成員に対して見せる「同志的愛情」は、それを説明するに足りない。
南ベトナムが敗亡のときサイゴンで最後まで韓国人を避難させる業務を遂行し避難ができず、北ベトナムに抑留されていた李大鎔公使など韓国外交官を送還するため韓国政府の交渉代表団が1978年12月、インドのニューデリーで北側代表団に会った。北側が李大鎔公使などを北に連れて行こうとしたからだ。場で北側代表団は次のように語ったという。
「この会談は、南朝(南韓)の革命家とベトナムに抑留されている韓国人員との交換のためのもので(中略)被告人の立場にある南鮮側は、裁判官である北鮮(北韓)の要求に応じて、本人の出生地と居住地に関係なく当然、彼らを引き渡さねばならない(中略)南鮮側は、南韓出身の革命家たちを縁故のため引き渡せないと言っているが、それなら私たちがその家族を一緒に引き受ける用意がある」
北側がここまで熱心に連れて行きたかった「南鮮の革命家」は申栄福だった。申栄福は1968年、統革党事件で検挙され、無期懲役を宣告されて服役中だった。当時、韓国側の代表が北韓出身の南派スパイや在日韓国人出身の間諜事件関連者の名簿を提示したが、北側は「必要ない」とし、韓国出身の統革党事件関連者の引き渡しを粘り強く要求した。
「南韓の革命家は本当に渡すことはできないのか。南韓出身の革命家を南韓の内の家族問題のため引き渡すことが困難であれば、家族と一緒に渡してくれればどうか。この場合、その家族も21人の中に計算する用意がある」(1978年12月4日第1次会議)
「この会談は『南鮮の革命家』とベトナムに抑留されている南鮮人員との交換のためのもので『南鮮の革命家』の中には南韓出身者が当然含まれる。南韓の出身者を引き渡すことができない立場が本当に強いなら、この会談は決裂するしかない」(12月11日第4次会議)
「南韓の出身者は本当に引き渡しが不可能か。それなら会談の将来を憂慮せざるを得ない。このような状況なら越南(北ベトナム共産政権)をさせて会談をやめるようにするしかない(12月15日第6次会議)
北側の要求は執拗だった。別の観点から見れば、南朝鮮内の統革党革命家に対する大変な愛情だった。
(つづく) |