米国は、中共が国連安保理の常任理事国(1971年10月25日)になり、国連を通しての国際秩序の管理が不可能になるや、西方陣営を結束、統制する新しい装置を作った。
共産陣営に対抗し、第4次中東戦争が触発したオイルショックによる混乱を克服するため73年、米国、西ドイツ、英、フランスの財務長官たちの集まりを始め、この4カ国に日本を追加しようと提案した。G5が設立されたのだ。G5の最も重要な議題は、ドルの地位を確立することだった。
フランスで、第1回G5会議が開かれる中、イタリア首相「アル・モロ」が自国が抜けたことに抗議すると、5カ国はイタリアの加入(75年11月17日)を承認、G6となった。76年には米国がカナダの加入を提案してG7になった。
ニクソン・キッシンジャー以降の米国は、ソ連との冷戦ゲームに熱中した。同盟を守ることは二次的なものとなった。米国の同盟諸国と米国の間に緊張と摩擦が高まるしかなかった。NATOの核心同盟まで米国のための補助装置となる状況だったので、韓国の立場などが考慮される余地はなく、相談の対象でもなかった。
北韓側は69年、ソ連から射程70キロメートルの地対地弾道弾FROG7を導入した。だが、米国は71年3月、ソウルの北に配備されていた米7師団(2万人)を韓国から撤収させた。危機感を感じた朴正煕大統領は、自主国防に邁進せざるを得なかった。だが、韓国としては当然の自主国防努力をワシントンは危険と思った。
当時、韓半島の安保が日本の安保と直結すると考えていた日本の首相たちは、米大統領に在韓米軍の撤退に反対すると言った。中国も建前では駐韓米軍撤収を叫んだが、日本の浮上を恐れていた中国は駐韓米軍の駐屯を望んでいた。キッシンジャーと周恩来の71年の対話はこの事情をよく説明している。
朴正煕大統領は71年12月27日、国防科学研究所(ADD)を作り、休戦線の南から平壌まで届く地対地弾道弾の開発を指示した。当時、射程200キロメートルの地対地弾道ミサイルは世界で6カ国だけが開発、核弾頭を装着していた。
ミサイル技術がなかったADDは、ナイキ・ハーキュリーズミサイルを土台に使うことにした。韓国は66年、米国からナイキ・ハーキュリーズ地対空及び地対地兼用のMIM14のミサイルを導入した。ミサイル用の固体燃料製造問題は運よく解決された。米空軍に固体燃料を納品していた会社(LPC)が赤字で閉鎖した誘導弾推進体生産工場を260万ドルで韓国に売った。
核心技術はフランスから導入した。韓国・フランス間の原子力協力協定が74年10月19日に締結、白熊ミサイル用の核弾頭開発を始めた。イスラエルもフランスの協力で核兵器を保有する。朴正煕政府は、フランスの核兵器研究所で高爆実験を完了したという。米国は韓国の核開発の中止を要求してきた。
韓国は78年9月26日、地対地弾道ミサイル白熊(NHK1、射程180キロ)実験に成功、数日後の国軍の日に公開した。駐韓米軍司令官が79年9月、ミサイル開発中断を要求する書簡を韓国当局に送った。盧載国防部長官が書面で同意。盧長官のこの同意書簡を「ミサイル指針」と呼ぶ。射程180キロ、弾頭重量500キログラムに制限する内容だ。180キロはソウルから平壌までの距離だ。この直後、朴正煕大統領は逝去、第5共和国はミサイル開発チームを解体した。
(つづく) |