カーター大統領は、シングローブ少将に、彼の発言は「政策決定後、軍の将校たちが守るべき適切な態度に深刻に違反する」と批判した。シングローブは本土勤務を発令されたが翌年、他の講演のときもカーター大統領の政策を批判し、その後、軍を離れた。
シングローブは転役後、世界反共連盟総裁を務めるなど、反共戦線で献身した。カーター大統領とシングローブの対立は、6・25戦争のとき、ハリー・トルーマン大統領とダグラス・マッカーサー将軍の葛藤に例えられる。トルーマンとは違って、カーターはシングローブに敗北した。
いずれにせよ、朴正煕大統領は国内外的から「維新体制」という権威主義的かつ長期執権に対して反対・批判勢力の広範な攻撃を受けていた。
この朴正熙「長期執権」に対する国内外の攻撃の根源をたどっていくと、皮肉にも共産全体主義の独裁政権である平壌がその根源だ。1945年以来、ソ連軍の手先として権力の頂点に上がった金日成は、同族を大量虐殺した6・25戦争の敗戦を雪辱するために腐心してきた。
金日成は64年、労働党の「南朝鮮局」(連絡局)を対南事業総局に改編し、調査部(後に対外情報調査部と作戦部に分離)を作った。韓国赤化工作のための措置だった。これは時期的に金正日が世襲後継者としての授業を受けるため「党事業」を始めた時期(北側は64年6月19日を金正日が”党事業”を始めた日と記念する)とも一致する。
南・北韓の対決が熱戦から冷戦に変わり、その戦場が韓半島と日本を越え世界に拡散する契機は、ベトナム戦争が決定的だった。南・北韓はベトナム戦争に参戦した。当時、金日成は、韓国赤化のため、最大の障害である米国との戦争に備えていた。韓国をベトナム戦の第2戦線、ゲリラ戦場化を目論んでいた金日成は68年11月、北韓科学院の咸興分院で演説した。
「何より、米国本土を打撃する手段を持つことが戦争を準備する上で重要だ」「米国の地に爆弾が落ちれば状況が大きく変わる。米国内で反戦運動が起こり、そこに第3世界の反戦運動が加勢すれば、結局、米国は南朝鮮から手を離さざるを得なくなるだろう」と核兵器と長距離ミサイルを生産することを強調した。
金日成は、前述した通り労働党と人民武力部に海外工作機構を設置した。主に、第3世界の軍事・テロ要員たちを北韓に招いて訓練するか、その国々に教官を派遣して訓練した。この頃から麻薬密売にも本格的に手を出した。第3世界を対象とした平壌側のこのような画策は、国連でもその威力を発揮することになる。
平壌市三石区域にある15カ所の特別招待所と平安南道江東郡門興里にある15カ所の特別招待所が第3世界の軍事・テロ分子の訓練場だ。教育期間は、短期は3~6カ月、長期の場合は18カ月だった。
65年から85年まで北韓内の訓練所で特別訓練を受けた人員は、イラク、リビア、シリア、パレスチナ、南イエメンなど30カ国からの数千人に達した。平壌側が海外に軍事要員を派遣した主要な事例は次の通りだ。第3次中東戦争(66年)の際シリアにパイロット25人を含む1500人派遣、70年にはシリアに戦車兵200人とパイロット53人を派兵、73年パレスチナ(アラパート)にゲリラ教官70人派遣、74年はエジプトにテロ教官5人派遣、76年アルジェリアにゲリラ教官派遣、レバノンに特攻隊派遣、77年リビアに軍事教官を派遣した。
(つづく) |