外資系貿易会社「Jキマトライ」
高校3年生の時、李慶泰校長から大学進学を勧められた金聖大。どうにか父親を説得することはできたものの、やはり金銭面が頭痛のタネとしてくすぶっていた。そこで、学費の安い国公立大学を第一目標に掲げた。
しかし結果は散々で、落胆する日々が続いた。神戸外大に続き大阪外大も不合格。国語、英語、数学、社会、理科の5科目のうち、数学が常に足を引っ張った。数学で悩んでいた2浪時代、兵庫の西宮に住む高校の同級生・林有男に再会した。聖大の悩みに対し、林有男は「だったら入試科目に数学がない関西学院大学を受験してはどうか」と提案してきた。
「そうして2人で英文科を受験しました。でも、林有男は私の答案用紙をカンニングしていたようで、私だけが合格してしまったのです。でもその後、林有男は米国のアラバマ大学に留学し、有名な英語塾の経営者になりましたから結果オーライです」
関西学院大学は私大のため高額な学費が必要だった。在学中はアルバイト三昧で、勉強時間が足りなくなるほどだった。しかし成績はそこそこで、無事に英文学の学士を取得することができた。
1960年代の日本では大卒者が希少な存在だったため、大学の卒業証書さえあれば就職は引く手あまただった。しかし、それは日本人の場合に限った話であり、聖大のような在日韓国人には別世界のような話だった。名の知れない中小企業でさえ、在日韓国人には面接のチャンスさえ与えられなかった。
国籍による差別が横行していた時代だ。金聖大青年は世の中を責めず、「やればできる」と信じた。朝、目を覚まして真っ先にしたことは、朝日・毎日・読売の各紙を開いて求人広告欄を精読することだった。連日、求人先の企業に電話をかけ、履歴書を提出したが、そのたびに門前払いされた。しかし、粘り強く問い合わせを続けた。そんなある日、一風変わった名前の会社を発見した。
「Jキマトライ」だ。
聖大が問い合わせると、すぐに面接の案内があった。履歴書を出す前に面接を案内されるのは初めてだったため、思わず警戒心が顔を出した。しかし、気を取り直した聖大は靭本町(うつぼほんまち)のオフィスを訪ねた。
「その場で採用の知らせをいただきました。履歴書を提出し、面接を受けたら『明日から出勤するように』と言われました。窓一つない事務室でした。机は壁に向けられ、応接セットは中央に置かれていました」
電光石火のごとく就職が決まった。「Jキマトライ社」はインド人が経営する綿織物の会社で、金聖大が訪ねたオフィスは日本支社だった。外資系企業だったから就職することができたのだ。国籍を問われず、学歴と人柄だけで精査された結果だった。
金聖大が手にした初めての名刺「Jキマトライ・Sung Dai Kim」
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