白頭学院の李慶泰校長
金聖大が玉津中学校について振り返るとき、真っ先に思い浮かべるのがサッカーだ。
毎日のようにボールを蹴った。サッカーには白頭学院も関連している。金聖大が白頭学院に惹かれたのは、民族学校であるということ、そしてサッカー部があるということだった。金聖大はサッカー部員3人と共に白頭学院に進学した。高校生活は非常に充実していた。
「校内が自由な雰囲気で、とても気が楽でした。日本の学校であれば何かしらのプレッシャーがあったと思います。昼休みには友だちと弁当を囲み、おかずを交換しながら食べていました。そのシーンは今でも目に浮かびます」
白頭学院には、外国人登録証を所有していない仲間や、密航で入国し20歳をゆうに超える同級生もいた。「おやじ」というあだなを持つ友人もいた。
金聖大は白頭学院でもサッカー部のレギュラーとしてプレーした。その実力は大阪管内サッカー大会で優勝を果たすほどだった。しかし、もっとも波に乗っていた1年生の2学期、試合中に選手生命を脅かすほどの大けがを負った。
サッカーができず、漠然と日々を過ごしていたある日、友人からテニス部に誘われた。そのテニス部で、金聖大は生涯の師となる人物に出会う。李慶泰(1911~99)校長だ。
「李校長のテニスの実力は相当なもので、カットサーブと変化球には太刀打ちできませんでした。月に1、2回ほど相手をしてもらいましたが、最も秀でたテニスコーチでした」
李校長は多忙な日々を過ごしていた。学校の財務状況が劣悪だったため、寄付を求めて多くの時間を外回りに費やしていた。釜山近郊の亀浦出身の李校長は、32年に渡日し、苦労して学業に励みながら関西大学法学部を卒業。その後、大阪初芝商業高校の教師になった。解放直後に出会った神戸出身の実業家・曺圭訓(1906~2000)からの依頼で白頭学院の初代校長を務めた。
曺圭訓は白頭学院の設立者で、民団中央本部団長を歴任した在日同胞社会のリーダーだった。曺圭訓が資金を捻出し、李慶泰が校長となって設立されたのが白頭学院だ。1946年3月、大阪の住吉区に設立された当時の学校名は「建国工業学校(男子校)」と「建国高等女学校(女子校)」だった。法人名は「白頭」と名付けられ、校名は「祖国を建てよう」との願いを込めて「建国」とした。
建学の理念は「祖国復興の礎になろう」だった。「イデオロギーに偏ることのない不偏不党でなければならない」という教育モットーを掲げ、「日本はもとより、国際社会で通用する人材を育成する」という教育方針を打ち出した。いわゆる「中立教育」を謳い、南北どちらにも肩入れしないことを宣言したことで韓国政府と北韓政権の双方から批判された。
金聖大はテニス部で出会った友人、イ・スンミョのことが今でも忘れられない。
「スンミョの父は天王寺区で非鉄金属の会社を経営していたため、裕福に暮らしていました。家の敷地だけで500坪を超えていたんですよ。だから私はスンミョの家でよく寝食を共にさせてもらい、一緒に勉強したりしました」
楽しい高校生活も、気がつけば3年生の2学期を迎えていた。その当時の金聖大にとって、大学は夢のまた夢だった。
家の経済状況を考えると、進学など考えることすらできなかった。しかし、そうした諦めの境地に「待った」をかけたのが李校長だった。週に3回、校長室に金聖大を呼び出しては勉強をさせた。
「聖大君。君は大学に行くべきだ。入学の面倒は私がみる」
(ソウル=李民晧) |