済州道で暮らし始めたキム・ソンデ少年は日々恐怖におびえていた。4・3事件(1948)が発生すると、一緒にかくれんぼをして遊んでいた友人の家族が命を落としたり、行方がわからなくなったりするケースが相次いだ。10歳の頃には韓国戦争(50年)が勃発した。まさに「泣き面に蜂」で、サンフランシスコ講和条約(52年)が発効されると、両親とは離散家族になってしまった。ある日、祖父がソンデを座らせて静かに話し始めた。
「ソンデよ。済州道は危ない。お前だけでも日本に行ったほうがいい。ちょうど数日後、隣町のおばあさんが日本に発つそうだから、その便で一緒に行けばいいと思っている」
定期路線は断絶されていたため、日本に渡る手段は密航しかなかった。隣町のおばあさんに同行したソンデは途中、寄港地の釜山・影島橋近くの旅館で数日間を過ごした。高波や警備の状況などに影響され、日本行きの船は出港が遅れた。明かり一つない漆黒の夜、いよいよ密航船は動き出した。
しかし、出航してから半日ほどが経った頃、大きなサイレンの音が響き、幼いとき耳にしていた日本語が聞こえてきた。
「おい! 全員船を降りろ」
ソンデは日本の沿岸警備隊に捕らえられ、対馬拘置所に収容された。そこから2日後、再び別の収容所に移送された。長崎県の「大村収容所」だった。そこは「韓国から来た密航者」であふれかえっていた。密航船に乗り、玄海灘を越えようとした同胞の人々だった。
「大村には私のような子どもも沢山いました。収容者の4人に1人が子どもでした」
「日本版アウシュビッツ」とも称されるほど悪名高い大村収容所。そんな中でもソンデ少年は彼なりの楽しみを見つけた。早起きして朝食を食べ、昼には外で遊び、忘れかけていた日本語の勘も取り戻した。ただ送還される日を待つだけの密入国者ではあったが、友人らと過ごす日々は楽しかった。しかし、看守から名前を呼ばれた友人たちは一人、また一人といなくなっていった。「自分の番はいつ来るのだろうか」と考えていた某日のことだった。
前触れもなく、父が訪ねてきたのだ。腰の曲がった高齢のおばあさんも一緒だった。おばあさんはソンデを取り上げてくれた産婆だった。ソンデが日本生まれであることを証明できる唯一の人物であり、産婆の証言と証拠となる記録によって日本での滞在許可が下りることになった。二度と家族がそろうことはないとあきらめかけていたその時、突然現れた恩人のおかげで両親のもとに帰ることができた。大村での生活を始めて5カ月目のことだった。
大阪に帰るとまもなく、父はソンデの手をとり学校に向かった。そして半ば強制的に東成区の大山小学校5年生に編入させた。収容所で再び学び直した日本語も、そのころには意思疎通ができる程度になっていた。
2年後には玉津中学校に入学した。日本の一条校ではあったが、校内はまるで韓国の学校かと見まがうほどに韓国語が飛び交っていた。生徒の3人に1人が在日同胞だったのだ。ソンデは心穏やかに中学校生活をスタートさせた。
(ソウル=李民晧)
『大村収容所』(朴正功著/京都大学出版部/1969年)から |