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2023年09月05日 10:17
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大韓民国の建国史323
経済開発への邁進から国民の福祉を配慮し始めた大韓民国

 朴正煕大統領は内外からの逆境の中でも超人的な意志で政府を導いた。
ニクソンショックによる韓米同盟の動揺と安保負担の増加、中東戦争が触発したオイルショックによる経済的困難、維新体制と緊急措置などで政治的抵抗に直面しながらも、第4次経済開発5カ年計画を確定(1976年6月18日)し、経済開発のための法的、制度的整備も精力的に推進した。
朴大統領の重化学工業への転換は効果を出し始めた。
輸出だけが生きる道だった。機械工業が発展すると、鄭周永会長の現代自動車は75年、輸出を念頭に固有モデルの乗用車「ポニー」を開発した。韓国は76年6月、初の国産自動車であるポニーを南米に初めて輸出した。
首都圏に半月新工業都市(国家産業団地、今の安山市)の建設が発表され76年10月2日、起工式が行われた。電力需要が爆増し、超高圧送変電施設を竣工(77年4月30日)し、麗水火力2号機が竣工(77年6月30日)した。加圧重水炉である月城原子力1号機を77年5月15日、起工した(竣工は82年3月)。月城原発は核兵器開発への布石でもあった。
財政管理および税収の増加のため特別消費税法を制定(76年12月22日)した。アジアでは初めて77年7月1日から付加価値税を施行した。
重工業化へ邁進してきた大韓民国は農業国家から工業国家に変貌していた。
貧困脱皮は革命的な課題で、3回の5カ年計画を遂行し、労使問題の管理や福祉問題は、経済発展はもちろん、政治・社会的安定にも不可欠だった。「社会主義」「無償福祉」を宣伝する平壌側との対決のためにも「国民の福祉」を真剣に考える時になった。
韓国が医療保険制度を導入・実施したのは77年7月だ。この時の韓国の1人当たり国民所得は700ドル超で、米国の10分の1程度だった時代だ。医療保険は、申鉉碻保健社会部長官が、当時時期尚早といわれた慎重論を乗り越えて導入したものだ。
朴大統領は75年12月19日、大幅の改閣をした。金鍾備国務総理を退陣させ、崔圭夏が国務総理となった。申鉉碻議員が保健社会部長官に任命されたが、本人の意思を全く訊かない人事だった。彼は以前にも何度も長官職を拒絶したため、朴大統領は彼を必ず起用するために、本人の意思を尋ねなかった。
この時、保健社会部は、医療問題、労使問題、労働者の権益擁護など様々な懸案を抱えていた。経済は急速に成長していたが、重化学工業への投資のため貧困層の福祉問題が深刻だった。国家財政に大きな負担とならず、貧困層に切実なのが医療福祉だと考えた申長官は押し通した。
当時、韓国は病院費が高すぎ、ほとんどの人々は薬局だけに頼っているのが実情だった。経済企画院、財務部、商工部官僚たちは、80年代になってから医療保険の導入が可能だと見ていた。
申長官は就任時にこう語った。 「福祉政策に対する私の基本的な方針は、経済成長と適切なバランスを維持することです。ある社会では、経済は眩しく成長するのに福祉が遅すぎると、国民の不満が爆発し、社会が破壊されます。逆に、経済成長が負担できないほど福祉が過度に先に進むならば、その国は破綻を迎えます。(中略)経済と福祉、両者の間で上手くバランスを保つことが何よりも重要です」
申長官は、世界各国の医療保険制度を研究、ある程度の腹案を持って朴大統領を訪ねた。
(つづく)

2023-09-06 3面
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