オオナムチ(大己貴)とスクナヒコナ(少彦名)も韓地から渡来
オオナムチ(大己貴)とスクナヒコナ(少彦名)が協力して、倭地(日本列島)の国造りに励んだということだが、スクナヒコナは途上、行方不明となってしまう。で、オオナムチは1人で東奔西走、国造りに励んで、「ワシがこの国を造った」と自画自賛するのだが、どうしたわけか、スクナヒコナが再び現われて、「お前1人の力ではない」と、オオナムチの自画自賛に”待った”をかけた。
その2柱の人(神)格はいったい、どういう関係にあったのか。仲良しだったのか、それとも仲が悪かったのか。あるいは、時空を超えた関係であったのか。いずれにしても、『記・紀』の世界では、スクナヒコナは、オオナムチの影に隠れてしまって目立たない存在になっている。
オオナムチは、オオクニヌシ(大国主)、オオモノヌシ(大物主)、アシハラシコオ(葦原醜男)、ヤチホコ(八千戈)、オオクニタマ(大国玉)、ウツシクニタマ(顕国玉)などと実に多くの名前があって、ああでもない、こうでもない、ということになって、その実体はとらえがたい。
オオナムチの人(神)格を徹底追求すると、韓神の大己貴と少彦名が未開の日本列島を開拓したという結論になる。オオナムチは国津神の代表、すなわち日本列島土着の神々のシンボルとされているのだが、驚くなかれ、平安時代の宮中に祀られている韓神であった。
スクナヒコナも同様で、それは、日本列島を開拓したのは、韓地から渡来した神々とその子孫であったということを暗喩する。
親のスサノオが鉄剣で子のオオナムチが銅剣というのはあり得ないこと
アマテラスは7世紀の『記・紀』編さんの頃、藤原不比等らによって、百済系大和王朝の始祖として創作された人(神)格であることを明らかにしたが、スサノオも同様に、前王朝である新羅系山陰王朝の始祖として創作された可能性が高い。
すなわち、高句麗広開土王によって撃破された沸流百済の王族が400年前後に倭地に亡命し、大和王朝を樹立したが、それ以前に、出雲を宗主国とする新羅(伽耶)系山陰王朝が存在していて、その始祖として、あるいはその象徴として、スサノオが創作されたと見られることだ。 |