韓日国交正常化は、国際政治や国際秩序の変化の産物だった。したがって、国際秩序が変われば、韓日関係もその影響を受けるのは当然と思わねばならない。そのため、東西冷戦の状況で韓日関係の正常化・緊密化を促した米国が、北京(中共)と和解しながら、韓日関係においても隠されていた限界が明らかになり始めた。
日本が韓日関係より日中関係をより意識し始めたのは自然だ。日本は前後、1950年代から社会主義圏との関係回復に努力した。6・25戦争中の52年に、すでに日本共産党の傘下団体として日朝協会が作られた。
休戦3年後の56年、日朝貿易会が設立された。日朝貿易会は当然、朝鮮労働党日本支部(朝総連)と緊密に連携し両国間の貿易拡大に努力した。彼らは北韓との貿易だけでなく、在日韓国・朝鮮人北送工作など政治活動にも熱心だった。
池田内閣(60年7日発足)は61年、バーター取引を条件に、北韓との直接貿易を許可した。大蔵省は62年11月、北韓との決済禁止条項を削除した。日朝貿易会は63年2月、「朝鮮国貿促」と貿易取引の合意書に調印した。63年9月三井銀行と朝鮮貿易銀行との間にコルレス契約が締結され、64年、住友銀行も北側とコルレス契約を締結した。そして後払い輸出も可能になった。
韓日国交正常化が成立するや、日朝貿易会は、朝鮮労働党日本本部と緊密な協力のもと、平壌で日本商品展示会を開いた。日本科学技術図書展(67年7月)なども開催した。北側の7カ年計画を支援するものだった。
いずれにせよ、平壌側が、韓国内でベトナム戦争の第2戦線ゲララー戦場の構築に乗り出したため、韓国政府は70年2月、日本当局に対し北韓との貿易を全面中断するよう要請した。しかし日本側の対応は冷淡だった。
米国のニクソン・ドクトリンや朝鮮労働党日本支部の工作があったとは言っても、田中角栄通産相は71年10月、記者会見を通じ、対北輸出に輸出入銀行融資を認める方針を示した。
初党派の「日朝友好促進議員連盟」(久野忠治会長、240名)が結成されたのは翌月だった。佐藤栄作首相の反対にもかかわらず、自民党の久野忠治会長を団長とした日朝友好促進議員連盟代表団が72年1月、平壌を訪問した。朝鮮労働党は72年2月「朝鮮国貿促」名義で在日党(朝総連)に、北側の貿易代表部が日本に設置されるまで暫定機関として業務を遂行する朝日輸出入商社を東京に設立するよう指示した。
田中角栄通産相など日本当局の日北関係拡大方針が伝えられたことによるものであるのは言うまでもない。労働党日本支部が堂々と平壌側の業務を代行する機関として待遇されるようになったのだ。
以上が日中国校正常化(72年9月)以前まで展開された日本の南北韓等距離政策の流れだ。
大韓民国が熱戦と冷戦を混合したような準戦時のとき、日本社会は韓国の危機状況を徹底的に無視した。韓国が、いわゆる「汎用商品」として日本が北へ輸出する物資が平壌側の対南工作に使われることを指摘しても、日本の朝野は韓国の主張と要求を黙殺した。
このような事情の中で、米中和解や日中国交正常化が行われた。中共側は米中和解後、沿岸部の開発を始める。中共は6・25戦争以来、米太平洋艦隊の攻撃を恐れて彼らの産業や戦略施設は内陸の深く建設してきた。毛沢東の死と「文化革命」が終わるや、日本財界はアジア大陸へ本格進出する。
(つづく) |