イザナギを、徹底探索してみると、なんと、伊西国(慶尚北道清道郡伊西面)の出身で、戦いに敗れ、京都は丹後半島の竹野川に来着し、遡上してイサナゴ嶽(磯砂山:京都府京丹後市峰山町)に降臨したことが分かった。まさに驚き、驚天動地である。さすれば、日本国は、丹後半島から始まったということになる。
そのことは、アマゾン電子書籍ハンデウン著『小説日本書紀2国生み イザナギは伊西から丹後に降臨』で述べているので参照願いたい。目次は次の通り。
「イザナギ・イザナミの語源」「伊西国の男と女」「辰韓の6部が新羅を支える」「新羅(斯盧)に併呑された伊西国」「新羅第3代儒理王の時代」「新羅第3代儒理王の事績」「新羅第14代儒礼王の事績」「イザナギは伽耶の地に住んでいた」「伊西国はアマノヒボコ(天日槍)の故国」「伊西は伊都、伊勢、磯、五十などに転訛」「イザナギは日本列島に最初に進出した征服者」「日本書紀は”韓隠し”の独立宣言書」「高天原は伊西国周辺の伽耶の地」「京都丹後の竹野川河口に到着したイザナギ」「竹野川上流は野田川に合流」「丹後は古代の丹波の中心地」「アマノヒボコが降臨した意呂山は大路に通じる」「イサナゴ(伊去奈子)嶽はイザナギの霊地」「イサナゴ嶽=比治山の羽衣伝説」「比治山のイザナギ伝承が天橋立に移動」「イザナギ由縁の天浮橋は天橋立」「トヨウケを祀る真名井の地はもとイザナミの霊地」「カヤの地名は加羅・加耶・加那に由来」「野田川は古代の倉椅川」「比治山=イサナゴ嶽の天女伝説」「安達家の七夕伝説」「トヨウケ(豊受大神)を奉斎したアマノヒボコ集団」
目次でおおよその察しはつくと思うが、換言すれば、日本列島はまず、新羅系、というよりも伽耶系の渡来人が、九州糸島半島や出雲、伯耆、但馬、丹後、若狭などの山陰海岸に来着し、入植して、開拓していった。それぞれが伽耶系の独立王国であり、その当時は、大和朝廷など姿かたちもなかった。つまり、大和朝廷以前に、山陰海岸に存在した王朝だ。その大和朝廷以前に存在した王朝とは、丹後のイザナギ王朝であり、あるいはアマノヒボコ王朝と称される新羅系、もしくは伽耶系の王朝であった。
『古事記』や『日本書紀』は、そうした王朝を抹殺した修史であり、”韓隠し”を徹底して、偽史を作り出した罪ある書である。その罪ある書を、金科玉条として、曲学阿世のヤカラどもを総動員して、幾多の詭弁を弄しているのが、現在の定説とされる日本国の歴史だ。しかし、偽史も完全犯罪ではなかった。注意深く検証していけば、そうしたボロが出てくるのである。
イザナギが王であった伊西国は、斯盧(後の新羅)に併呑されたため、逃れて、倭地の丹後半島に到着した。”敗軍の将、兵を語らず”というが、小さな船で、荒波の玄界灘を、何度も風待ちしながら渡るイザナギの心境はいかばかりであったろうか。捲土重来を期して、その都度、涙したであろうと思われる。 |