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2023年01月17日 10:52
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新解釈・日本書紀 応神<第67回>
伴野 麓

(84)王仁は古市(ふるいち)に定着
『氏族志』に「文氏、出自漢主邦裔孫鸞王、鸞王之後王狗、転至百済、其孫王仁、博通典籍、応神朝応徴来朝、是為河内文首祖、即西文氏也」とある。これによると、王仁の後裔本宗は、西文氏が本拠地とした河内国古市郡古市郷(現・大阪府羽曳野市古市)である。
すなわち、王仁は古市に定着して一族が繁栄し、後裔は、西文、葛井(ふじい)または白猪(しらい)、蔵、武生(たけふ)、船、津の6氏が著名で、日本書紀・応神記には「王仁は書首(ふみのおびと)らの先祖である」と記載されていて、書はフミと読み、文の字でも表す。西文氏の発音はカワチのフミシで、僧・行基(668~749年)は、その後裔である。行基は和泉国大鳥郡家原郷(大阪府堺市)で生まれ、俗姓は高志氏、幼名は法行で別名を行基という。
王仁の子孫である文忌寸最弟(ふみのいみきいやおと)が、延暦10年(791年)に昇叙を願い出た上表文が続日本紀に収載されている。「漢の高祖の後孫を鸞王(らんおう)という。鸞王の後孫である王狗(おうく)が転じて百済に来た。百済の久素王(近仇首王)の時、聖朝(大和朝廷)が使臣をつかわして文人を召されたので、久素王は王狗の孫である王仁をたてまつった。これが文氏と武生氏の祖先である」。
同じく続日本紀に、「応神帝、捜聘有識者、貴須王遣其孫辰孫王、随使入朝、帝喜焉、特加倭寵、以為皇太子之師矣」とあり、百済の王族である辰孫王(しんそんおう)の長子が大阿郎(たあろう)王で、大阿郎王の子が亥陽王、亥陽君の子が午定君、午定君の子は長子の味沙、仲子(ちゅうし)の辰爾(しんに)、季子(きし・末っ子)の麿と3子あり、長子の味沙(味散)君は白猪氏・葛井の祖に、仲子の辰爾(智仁)君は船氏・宮原氏の祖に、季子・麿(番侶)君は津氏・管野氏・中科氏の祖になった。
西文氏(河内)ゆかりの西琳寺(さいりんじ・大阪府羽曳野市古市)の寺伝によれば、この寺は欽明20年(559年)に王仁の子孫である西文氏の文首・阿志高(あしこ)と支弥高(きみこ)の父子が創建したといい、欽明と桓武の勅願寺として尊崇された。河内地域における最古の名刹で、別称を古市寺といい、寺号を向原山と称して、毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)の霊験あらたかなことで有名であった。西琳寺の寺域の東限は河内飛鳥、西限は羽曳野丘陵、南限は喜志、北限は応神帝陵北とされ、現在の西琳寺には、高さ1・18メートル、径2・73メートルという巨石の五重塔礎が遺されている。これは日本一の塔礎石だということだ。
大阪府藤井寺市の葛井寺は、応神朝の末頃に百済から渡来した辰孫王の子の白猪史らが720年に葛井連となり、725年に建立した氏寺であると伝える。葛井寺の本尊は天平年間(729~749年)後期の千手観音で、1042本の手をもつ乾漆(かんしつ)仏だ。
藤井寺市一帯の船氏、津氏、葛井氏らは同族で、明治維新の時まで船氏一族が船戸講をうけついで来たという。船氏は応神亡命以前から船舶を建造した沸流系の技術集団であったとみられる。また、韓半島の地名の中から弁辰系の地名とされる辺山半島は、錦江河口の南に位置する上に、昔から宮室や舟に使用する松材を産出した国之材府であったし、舟山面・小舟里のように船と関連する地名があることから、沸流百済の船廠(せんしょう・造船所)はまさにここにあったのではないかと思われる。

2023-01-18 6面
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