金大中拉致事件が韓日関係にどのような傷痕を残したのか、つまり「刑事事件」の次元を超え、東西冷戦韓半島の冷戦の流れにどういう影響を及ぼしたのかは、事件後50年近く経っても、この事件の冷戦史的意味はまだ客観的に究明されていない。
韓国は東西冷戦の最前線で必死に戦っていたが、平和国家の日本社会の大半は韓国の厳しい現実に無知で、あえて目をそらそうとした。関心があっても大体、日本は韓国の後方基地という程度の感覚、認識だった。日本社会は、大韓民国の自由民主体制を護る唯一の法的装置である国家保安法に対しても、独裁や弾圧の装置と見た。共産側の影響力工作のせいだった。共産側の圧倒的な政治・謀略戦略、戦術(工作)に対し、日本社会は事実上、無防備状態だった。
韓日は6・25戦争以後、アジアで大規模な戦争だったベトナム戦争に対する立場も違った。朴正煕大統領は安保のため、つまり在韓米軍を韓国に引き留めておくため南ベトナムに5万人の国軍を派兵したが、日本ではベトナム戦争反対運動が盛んだった。このような状況で起きた、ニクソン・ショックと金大中拉致事件は、韓日関係が反共民主同盟へ発展する可能性を決定的に消滅させた。
平壌側は当初から金大中を統一戦線工作の重要な相手にしてきたが、彼が拉致されるや、この李厚洛中央情報部長が犯したミスを、韓日関係に決定的なくさびを打ち込む契機にするため、敏感に反応して総力を尽くした。
金大中を朴大統領に対する牽制カードとして使用しようとした米国をはじめ、主権が侵害されたと激昂した日本の朝野では、韓国と断交主張が出るほどだった。日本と韓国では「刑事事件」の次元で扱われていた拉致事件が、共産側には途方もない戦略的機会だったのだ。自由社会は、政府や政策がメディア報道に大きく影響を受けるしかない。
韓日両国の外交関係が冷え込んだのはもちろん、特に安保協力・情報交流・共有が断絶された。両国当局間の情報交流が公式に再開されたのは15年後だった。東西冷戦で、西側陣営の情報機関がソウル・オリンピックの成功的開催を保障するための協力態勢を作り、日本がこれに参加したためだ。
東西冷戦が最も熾烈だった15年間、韓日の情報交流・共有が行われなかったのは韓国に致命的だった。日本メディアは、共産全体主義と戦わず、共産側の工作である「韓国民主化」を要求した。朝鮮労働党の日本支部である朝総連とその前衛隊の在日韓国民主統一連合(韓統連)のプロパガンダの代理人のようになった。日本は世界への「反韓プロパガンダ」の発信地となった。
鈴木善幸総理は、崔慶祿駐日韓国大使に「金大中が極刑に処されれば韓日協力は大きな制約を受け、北韓との積極的な交流を望む世論が大きくなり得る」と警告。平壤側は、共産陣営の全面支援を受け、日本社会に対する広範な影響力工作を展開した。平壌側は韓日間における当局間の情報交流・共有の遮断に成功するや、韓国のこの致命的弱点を利用し、大胆な工作に乗り出した。平壌側は、1953年韓国戦争休戦後、構築してきた日本国内の工作インフラを全面稼働した。平壌側の代表的な成功事例を通じて、実際に何が起こったのかを見てみよう。
韓国当局は92年8月、平壌が派遣した大物工作員労働党政治局候補委員の李善実によって構築された大規模の地下党「南韓朝鮮労働党中部地域党」組織を摘発、発表した。この事件こそ、韓日間の情報交流・共有の不在がもたらした代表事例といえる。 (つづく) |