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2022年10月19日 11:26
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新解釈・日本書紀 応神<第59回>
伴野 麓

(74)木満致(もくまんち)と木刕満致(もくらまんち)は別人・つづき
475年は、高句麗との戦いに苦しむ百済が熊津(公州)に南遷した年だ。そのため木刕満致は、難を避けて倭国に渡海したと見られる。ということになれば、木満致と木刕満致は別人物ということになる。「神功時代の木満致」が「文周時代の木刕満致」と同じ人物だとされている裏には、そうする必要があって歴史が偽造されたと見るほかない。どちらにその理由があったのかは分からないが…。ともあれ、木満致を蘇我氏の祖とする説がある。
475年に「百済が熊津に南遷した」ということは、漢城(ソウル)を都邑地としていた温祚百済が、沸流百済の都邑地であった熊津(公州)に遷都したということであり、「沸流百済と温祚百済が重なった」ことを意味する。ここから百済と言えば、温祚百済を指称するようになった。
スサノオ(素盞鳴)が熊津に居住していたという日本書紀・神代紀の記事は、倭地に避難した沸流百済による創作の匂いが強いが、百済、すなわち温祚百済の故事として捉えているから、理解不可能となる。

(75)木羅斤資(もくらこんし)は沸流百済の将軍
神功時代に、木羅斤資(木満致の父)は、新羅を討伐するために派遣された。その時の百済と倭の連合軍は、百済(沸流)の将軍である木羅斤資が総司令官であり、倭軍(神功軍)は加勢部隊であった。荒田別(あらたわけ)の登場は、加勢部隊の派遣を沸流百済に報告するためであった。
錦江河口を出発した木羅斤資の遠征軍は光陽(クァンヤン)湾に進入して蟾津江(ソムジンガン)河口の右岸に位置する光陽加羅(加耶山)を単独で掌握した後、その左岸の露梁(ノリャン)海峡の卓淳(タクスン・南海)を攻略して、ここで倭の加勢部隊と合流した。
その時(227年)、金海加羅は木羅斤資の遠征軍に平定され、沸流百済に臣属する附傭国の一つになった。すなわち、弁辰諸国の一つだ。同年(227年)には済州島をも檐魯(たむろ)化したといい、国名の耽羅(たんら)は檐魯の異表記だ。
その時の金海加羅は、金首露(キムスロ)王が逝去して20余年後のことで、その時から新羅に滅ぼされる562年まで、王統だけは金首露王の後孫に継承されたものと推測されるが、『加耶国紀・加耶碑文』は先祖の加耶王統の断絶を隠蔽するために1~5代までの在位期間を大体2倍ぐらいに引き上げたと指摘されている。
一方、日本史学界で7国の分布範囲を大邱にまで北上させているのは、当時の百済が漢山の温祚百済であることを前提としたからであり、神功の侵攻範囲を出来るだけ北上させようとする意図から生じたものだという。だが、当時の百済は温祚百済でなく、熊津の沸流百済であり、遠征軍も沸流百済の将軍木羅斤資が総司令官で、神功の南鮮出兵は南鮮経営のためでなく、本国(沸流百済)の遠征軍に派遣された加勢部隊にすぎなかったのである。

2022-10-19 6面
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