屋外ではマスクをしなくてもいいとの政府の方針が出たが、外を歩いていてもマスクをしていない人にあまり出会わない。日本の「マスク文化」は、コロナ以前から花粉症対策などで他国より定着していると思う。このマスク着用には様々な意見があると思うが、私が悟ったのは「人の目は、形は違うけどみんな綺麗だ」ということだ。目の整形などしなくてもいいのではないかと思えるほどだ。また、この綺麗な目を維持して守る責任は、社会と国にあるのではというおこがましい考えも、ふと頭をよぎる。
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怖い目つきで舌打ちをする後輩を避けて、急いで荷物を持って仕事場を出た。外に出たものの、いま何をして何処に行けばいいのか、全く決めることができなかった。1週間も風呂に入っていなかったことを思い出し、まずは仕事場の1階にあるサウナに向かった。
北朝鮮では1週間に1回風呂に入るのが普通だが、私の家族は3日に1回だった。サウナのチケットも権力と金がない者は手に入れることができない。私は同じ仕事場で普段から関係性に神経を使っていたので、いつでも利用できた。サウナがある奉仕施設の名前は”恩情院”だ。金氏一族が住民に恩情を与えたという意味だが、一般人が普通に利用できるところではなかった。水温とサウナ室の温度は、職員が燃料を盗んでいて、利用客によって温度が上がったり下がったりする。
サウナから出て、着替えるために家へ帰った。姑のひどいいじめが待っていても、夫と子どもたちがいる家に向かうときは嬉しかった。姑が私の顔を見た途端に大声で怒鳴るのを知っていたので、ドアをノックして目をつぶった。ドアが開く音は聞こえたが静かだった。目を開けてみたら夫だった。ドアが開き、怒鳴り声を聞かないで済むのがあまりにも嬉しくて「ありがとう」と叫びながら夫の首にすがりついてしまった。しばらくして夫の顔をみたらびっくりしていた。夫に小さな声で「お母様は?」と聞くと「出かけてる」という返事だった。同時に夫からは笑いと長息が出た。久しぶりに見る夫だった。
「どうなっているの」と聞く夫に「まあまあ」と曖昧に返事をして、部屋に入って着替えた。何の解決策もない辛い話をして、余計な心配をかけたくなかった。そもそも夫とは、そんな重い話をしたくなかった。
着替えて台所に入って片付けをしながら、夫と子どもたちの様子などを話した。出かける準備を始めると、夫は「母に会ってから出かけて。そうすれば少しは怒りが弱くなるかも」と言う。「1回で全部もらった方がいいわ」と返事しながら、涙が出そうになって目を逸らした。私と実母の間で苦労している夫が、一瞬かわいそうになった。
玄関先で夫に「私を褒めてくれる?」と聞いたら、夫が私を抱きしめてキスをしてくれた。涙が出た。「いつもありがとう」と互いにいたわり合った。疲労で重く感じた体だったが、風呂も済ませて少し軽くなった気分だ。子どもたちに明るい顔を見せたかったので、寄り道をしてからドンスの家に行った。キム君にあげるパンも、二つ買った。ノックをしてドンスの家に入った。
目の前にドンスのみが見えた。「だれもいないの?」と部屋の奥に進むと、玄関から見えないところに職場の責任者が横になって寝ていた。彼を揺すって起こした。「なぜ、ここで寝ているのですか?」と聞いた。彼の答えに私は気を失った。
ドンスが死んだ。
死んじゃった。
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ジョン先生の助けで起き上がったら、部屋には人がいっぱいだった。約2時間が経っていた。5畳ぐらいの部屋に大人が6人もいたから、狭さで息苦しくなった。横たわるドンスが視界に入り、さっき聞いた話を思い出した。キム君が、私の目の前に来た。「隣の家に聞こえるから、大声を出してはいけません」と、キム君が小さい声で言った。
喉と胸を締める痛みが強くなって、手の痺れもひどくなって来た。
(つづく) |