韓国の核開発をどうしても阻止せねばならないと決定した、キッシンジャー国務長官が、米国の主要在外公館宛ての訓令に含まれた対策は続く。
<2・韓国に核拡散禁止条約(NPT)に加入するよう圧力をかけなければならない。カナダはすでにそのようにしている。韓国は私たちのこのような初期の要求に反応を見せているが、カナダ政府との協力の下、次のような追加の行動が必要だ。
3・韓国の核施設に対するわれわれの諜報や監視能力を高め、関連分野においての韓国の技術的状態に関する情報を拡大せねばならない。我々は、核エネルギー関連機関に対する定期的な訪問調査をもっと頻繁に行う計画であり、訓練された技術者たちの査察回数を増やすようにする計画だ〉
駐韓米大使館も1975年3月12日、国務省宛ての電文を通じて、韓国が核兵器を開発するには10年はかからないはずで、韓国の指導者たちが核兵器開発に高い優先順位を置いているため、韓国の核開発を阻止するためには、米国は早期に確固として行動しなければならないと報告した。
韓国の核開発阻止は、米国の国家的最優先課題となった。米国はまず、韓国政府が推進している古里原子力発電所1号機の使用承認と、古里原子力発電所2号機の建設計画を弱点にして、説得と圧力を加えた。
ベルギーとフランスが米国の圧力に屈服、韓国当局が望む核燃料加工および再処理事業に関する技術と装備の販売を拒否した。米国は、韓国がカナダから濃縮ウランを活用する原子炉輸入を推進するときもカナダに圧力をかけて霧散させ、米議会は古里2号機建設のための借款導入の承認も保留するよう決議した。
実際、韓国は核拡散禁止条約(NPT)に68年7月に加入した。しかし、中共と北韓側がNPTに加入していないという理由で批准をしなかった。ところが、NPTへの加入で米国の核開発放棄圧力が緩和される可能性があるという判断で結局、75年4月23日、国会が批准する。
だが、NPT条約の批准が核開発の断念ではなかったため、スナイダー駐韓米大使は、金正濂青瓦台秘書室長に、使用済み核燃料再処理施設の導入を放棄するよう粘り強く要求した。結局、朴正煕大統領は75年6月、核開発を諦めることになる。シュレシンジャー米国防長官も8月27日に訪韓し、朴正煕大統領に米国の安保公約と「核の傘」の提供を再確認した。
韓国が使用後核燃料再処理施設の導入を最終的に断念するのは75年12月だ。その代わりに米国から原子力の平和的利用に対する協力を約束される。朴正煕大統領は、韓米同盟の破綻を回避し、日本のように原子力能力を蓄積する迂回戦略に方向を旋回した。
韓国政府は76年1月、フランス政府に、フランスのSGN社と結んだ再処理試験工場建設契約の破棄を要請した。
カナダ政府も米国の圧力で重水炉1機と一緒に韓国に販売することにしたNRX研究炉の販売交渉を中断した。もちろん、朴大統領はその後も原子力発電の技術サイクルの完成を目指し、関連技術とミサイル開発にも拍車をかけた。朴大統領は自らが設立者となり、76年12月1日、韓国核燃料開発公団を発足させた。
しかし朴大統領は、核爆弾を直接製造するとか、プルトニウムを密輸入するような試みはしなかった。朴大統領の核開発の試みは、結果的に米軍と核兵器を韓国に留めることには成功した。
(つづく) |