前に触れた通り、米国は金日成が朴大統領を爆殺するために、1970年6月、特殊工作員を派遣して恣行した「顕忠門爆破事件」2週間後の7月上旬、駐韓米陸軍2個師団のうち1個師団を1年以内に撤収すると通告した。また残りの1個師団も5年内に撤収すると言った。この方針は、金日成の武力南侵の野心を鼓舞した。
朴大統領は、軍事的劣勢を撤回する決定的な抑止力の確保を決心する。呉源哲経済2首席の証言によれば、朴大統領は72年の初め、金正〓秘書室長と呉経済2首席を執務室に呼び「平和を護るため核兵器が必要だ。技術を確保せよ」と指示した。
呉源哲首席は、大統領の指示に従って、韓国科学技術研究所(KIST)など研究機関を動員、核兵器開発技術力を確保する極秘のプロジェクトを稼動した。国防科学研究所など7つの研究機関に研究課題を分担して与えた。いろいろな機関に課題を分散したのは、米国の監視と牽制を避けるためだった。米国は「韓国が核兵器を作ろうと試みる」と疑い、「青瓦台と各種研究施設を監視していた。
青瓦台の最大の悩みは保安だった。国防科学研究所に研究を一括して任せれば、多くの研究員が核兵器開発を認知することとなるため、青瓦台が指示した研究課題が核兵器開発のための課題であることを認知できないように複数の機関に分散して進行した。7つのプロジェクトは、青瓦台のコントロールタワーだけが総合的な判断ができるように運営した。
呉経済2首席秘書官は9ページ分量の「原子核燃料開発計画」を作成した。呉首席が作成した72年9月8日付の報告書の一部は、国家記録院の情報公開を通じて一般に公開された。
2級秘密文書として分類されたこの文書には、「核兵器の種類とわれわれの開発方向」「ウラン弾頭とプルトニウム弾頭に対する長・短所の比較」などの包括的内容とともに、「わが国の技術レベルから見ると、プルトニウム弾の開発をする」という暫定結論が含まれている。
呉首席は、プルトニウム核爆弾の製造を提案した。プルトニウム核弾のほうがウラン核弾の製造より有利であると報告した。開発期間は6年ほど、大規模の電力が必要でなく、若干の技術導入によって国内で開発できると報告した。再処理施設に供給する、使用済み核燃料を確保する方案として、カナダの加圧重水炉の原子炉を利用すれば、年間200キログラムのプルトニウムが得られると見た。プルトニウム生産のための研究炉では、プルトニウムの生産量は少ない。
呉首席は、原子力発電所を追加建設する際、カナダのCANDU型の重水炉の導入を提案した。72年、フランスからプルトニウムの再処理技術および施設の導入も推進したが、米国は韓国の再処理施設導入を反対、霧散させた。米国は有事の際、核兵器を発射できるサージェント(Sergeant)ミサイル部隊を撤収させると韓国を圧迫した。
いずれにせよ、73年の第1次オイルショックで、原子力導入の緊急さが共感を得やすい環境下で、カナダ原子力公社(AECL、Atomic Energy of Canada Limited)の総裁の強力な協力のおかげで73年11月、月城1号機の建設計画を確定し購入意向書をAECLに送る。正式契約は74年1月、75年5月に建設工事が着工した。同年の10月、月城郡地域で敷地の買取りと住民の移住を開始、事業が本格化した。月城1号機は6年後の83年4月、商業運転を始める。
(つづく) |