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2022年05月10日 11:33
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新解釈・日本書紀 応神<第42回>
伴野 麓 著

(51)葛城襲津彦は鍛冶集団の棟梁か
葛城襲津彦は、神功紀でも応神紀でも新羅を討つ役で登場する。葛城襲津彦は火君・大分君・阿蘇君等の祖とされるから、襲(日向)との関係が深いようだが、どうして葛城(大和)なのか。景行紀には日向襲津彦(阿牟君の祖)が登場するが、葛城襲津彦との関係は定かでない。
奈良県御所市で5世紀中ごろの豪族の居館や刀造りの工房跡、鉄器生産や玉生産を行った工人集落の遺物が見つかり、朝鮮系土器や初期須恵器なども出土している。葛城襲津彦が新羅へ渡ったコース、葛城↓対馬↓(錆)海水門↓蹈鞴津↓草羅城を逆にたどるコースで渡海してきたのか。ソツ・サツ・サチ・サキなどは”鉄の鏃”を表す言葉とされるから、葛城襲津彦も鍛冶集団の棟梁だったのかもしれない。
日本書紀が引用する百済記に沙至比跪の人名が登場するが、襲津彦と同一人物と見られている。

(52)新田別は百済を本家とする倭地の王族か
荒田別は、神功紀に新羅を襲う将軍として登場する。応神紀の荒田別も百済に派遣された。王仁の招聘には、推薦者の阿直岐が行けばいいものを、どうして荒田別が行ったのか。王仁をよく知る同族だったのか。
「別」は5世紀ころの大王(天皇)族の呼称という見方もあるが、本家が百済(韓半島)、別家が倭地(日本列島)で、倭地の王に「別」をつけたのではないかと思われる。であれば荒田別も、百済を本家とする倭地の王族であったということか。
日本書紀・崇神紀に、豊城入彦が上毛野君の祖で、東国統治を任されたとあるが、任地へ赴いた記事はない。垂仁紀に八綱田が上毛野君の祖とある。豊城入彦↓八綱田↓彦狭島↓御諸別↓奈良別↓荒田別という系譜だ。
新撰姓氏録は「豊城入彦命五世孫多奇波世君之後也」とし、多奇波世は竹葉瀬で、仁徳紀に「竹葉瀬が上毛野君の先祖」と記している。また、「佐自努公、豊城入彦命四世孫、大荒田別命之後」とある。
魏志・倭人伝は、末盧(松浦)から船出した持衰が、髪を潮風になびかせ、ひたすら呪文を呪えて航海した様子を伝える。持衰はすべての災いを一身に引き受けるべく、神に祈るのを職分とし、難破をしても、あるいは病人が出ても、それは持衰の責任であり、死をもって罰せられる。海を渡るのは命懸けということだ。板子の一枚下は地獄の海原というなか、荒田別らも玄界灘を渡ったのだろうか。
延喜式に「荒田駅」があり、豊後国玖珠郡の今巳郷あたりに比定され、その地が荒田別の本貫地とする説もあるが、結局は関東の上野国が本拠地になった。
津田左右吉は、日本書紀の上毛野氏の伝承はすべて歴史的事実ではない、と切り捨てているが、はなはだ乱暴な気がする。
6世紀頃、毛野の地は独立性が強く、毛野の経営がはかどっていなかったと見られているが、裏を返せば、未開の地だったということだ。強力な豪族が蟠踞して独立性が強かったのであれば、熾烈な戦いが現出したはずだが、そのような気配がないということは、彦狭島や御諸別の東国領知の故事は、7世紀以降の潤色が濃厚と考えられる。

2022-05-11 6面
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