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2022年04月05日 12:00
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新解釈・日本書紀 応神<第38回>

◆弟姫(応神の妃、河派仲彦の娘)
河派仲彦は、古事記に咋俣長日子王とあり、咋俣は杙俣とも記し、古事記・景行記は、杙俣長日子王は息長田別王の子でヤマトタケル(倭建)の孫としている。咋俣長日子は、息長帯比売(神功)と姉弟という系譜にされている息長日子王(吉備品遅君・播磨阿宗君の祖先)と同族と推量される。
息長宿禰王が、河俣稲依毘売を娶り、大多牟坂王(但馬国造の祖先)を生んだとあり、その由縁の地は川俣(河俣)とされる。河俣毘売と河俣稲依毘売との関係は不詳だが、高市御県坐鴨事代主神社(橿原市高殿町)は、河俣神社とも称されている。
川俣という地名は、長瀬川と楠根川(巨麻川ともいい現在の第二寝屋川)の合流するところからつけられた名称であろうといい、その川俣郷は、今日の東大阪市川俣・楠根・長田、新家、御厨あたりに比定されている。
◆稚野毛二派王(応神と弟姫の子)
古事記・応神記には若沼毛二俣王とある。開化天皇の子の彦坐王の3世孫が息長宿禰王で、その妃は但馬国に定住した天日槍の6世孫・葛城高額姫であり、その娘が息長帯比売=神功だ。神功の子が応神で、応神の子の稚野毛二派は息長氏を称し、この息長氏の子孫の息長広姫は敏達天皇の妃となって、息長足日広額(舒明天皇)を生むという系譜だ。
古事記・応神記に、応神の子の若野毛二俣王は意富富杼王(大郎子)を生み、意富富杼王は筑紫之米多君等の祖であると記す。意富富杼王の子孫は北近江と越前の地に栄えたといい、意富富杼王の4世孫が継体天皇とされる。
◆糸姫(応神の妃、桜井田部連男鈕の妹)
大和国磯城郡に、古名は結崎、今は春日という地があり、糸井神社が鎮座する。日本書紀・安寧紀に糸井姫、応神紀に糸姫、古事記では糸井比売、敏達紀に糸井王などがあり、この地に因む名という。新撰姓氏録・大和諸蕃に「糸井造、伊蘇志臣同祖、新羅天日槍命之後也」とある。
河内国の桜井屯倉(朝廷の直轄地)が設置されたのは安康天皇の時で、応神の頃は「田部」はまだ諸豪族の所有する田であったと推定されるので、応神紀に桜井田部連とあるのは追書と見られている。安閑紀に「桜井田部連らに屯倉の税をつかさどらせた」とある。
旧事本紀・国造本紀に「穴門国造、桜井田部連同祖、邇伎都美命之後也」とあり、桜井の地名は額田部氏にゆかりのある地名とされる。桜井田部連の一族は長門国にいた額田部の一族で、応神に同道し大和平定後、河内国の桜井郷に定住して起こったとされる。
桜井田部の名は、後に桜井郷にある田部の統率者になったことから生じ、田部は朝廷直轄の田であり、田部造はそこに働く農夫の統率者のことだ。河内国の桜井郷は大阪府の生駒山麓にあり、現在の東大阪市豊浦・額田町の地域に比定されている。奈良県の桜井市にも豊浦の地名が古くからある。地名辞書・大和国は結崎を載せ、結崎の古名は糸井とされ、その地に糸井神社が鎮座する。

2022-04-06 6面
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