在日の二世は一世の家庭内暴力に苦しめられてきました。殴られて育った子供は、自分も家族に対して暴力を振るうようになります。家庭内暴力は二世、三世へと伝播していきます。私自身は父親が暴力を振るう人ではなかったので殆ど殴られたことはなく、自分の家族に暴力を振るわないで済んでいます。ただ言葉の暴力は凄まじかったですけどね。お陰で生きる気力のない人間になってしまいました。かみさんが拾ってくれなかったら遠の昔に死んでいるだろうと思います。
さて、人はなぜ怒るのか、ということについて考えてみます。人は怒るとき、神になっています。自分を絶対的に正しいと思うから、考え方の違う妻や子供を許せなくなります。口答えでもしようものなら、暴力で叩きつぶしてしまいます。しかし人は神ではありません。宇宙の中心に座ることが出来ない存在です。それを錯覚して自分を神だと思い込むから怒りが出て来ます。神の座る場所から自分の場所をずらしてみましょう。神の隣りに自分を置いてみると、意見の違う人の考えを聞いても、この人はこういう風に考えるのか、としか思わないでしょう。その考え方が妥当ではないと思うのなら、どうしてそういう結論になるの?と質問することで差を詰めていくことが出来るでしょう。
怒る人は、自分を過大評価しています。年収一千万だと自分を誇ります。一千万が自分の能力だと思うのです。しかし年収は相手が決めることです。ある日、今日から君は年収八百万ね、と言われたとき、会社を辞めるか、年収八百万を飲むかという選択に迫られます。転職して八百万以上稼げると思えば会社を辞めるでしょうし、よそでは八百万稼げないと思うなら、退職しないでしょう。つまり八百万という数字を受け入れるか、辞めてゼロを取るかのどちらかになります。この構造から分かるのは、相手があなたの値段を付けているということです。しかしあなたの人間としての価値は、他人に決めて貰うわけにはいきません。自分自身で自分を価値のある人間にしなければなりません。
科挙の欠点は、自分のために知識や知恵を使うという点です。他人のためには使いません。科挙に毒された人間は、売上げという成績を上げることばかりに汲々とします。しかし自分の知識や知恵を他人のために使って誰かの役に立ちたいと思う人は、この製品はお宅の会社の利益にはならないからと売るのを止めることもあります。お宅の求める製品は現在ないけれど、既存の製品のこの部分を改善すれば使えるから、追加のコスト負担をする気があるか、と聞き、相手が負担すると言えば、現場で製品の改造をしたりします。こういう人は長期的には大きな売上げを上げていきます。科挙に毒されている人は、短期的には売上げを上げ、多くの年収を得ることが出来ても、役員にはなれず、定年が来たら簡単に切られてしまいます。
以上をもの凄く簡単に言ってしまうと、韓国人や在日は科挙の考えに毒されて常に自分が一番でえらいと思っており、目先の成績を良くすることにのみ注力します。しかし日本人は相手のためになるものを売ろうとし、それがこの世になければ客と一緒に作り出そうとします。結果として長期的には多くの売上げを上げることが出来ます。
もしあなたが病気になったり、不幸に見舞われたとき「どうして自分が」と感じたなら、それはあなたがそれまで自分を神だと思っていたことを意味します。神の隣りに座っている者は「確率的に誰でも癌になる」あるいは「人生こういうこともあるだろうな」ぐらいにしか思わないでしょう。在日の二世は儒教で育てられています。うまく行かないことがあれば、全てを他人のせいにしてしまいます。また目先のことしか見てませんから、腹を立てると暴力を振るいます。そんな人かどうか、女性の見る目も問われます。
李起昇 小説家、公認会計士。著書に、小説『チンダルレ』『鬼神たちの祝祭』『泣く女』、古代史研究書『日本は韓国だったのか』(いずれもフィールドワイ刊)がある。 |