◆菟道稚郎子(つづき)
日本書紀・仁徳紀に大山守を攻め滅ぼしたのち、菟道宮を造って住み、そこで自殺したとある。宇治市に宇治神社が鎮座し、菟道稚郎子を祭神としている。菟道稚郎子の宅地跡だという。菟道稚郎子の墓は宇治墓として延喜式・諸陵式に載せられている。
栃木県下都賀郡野木町に鎮座する野木神社は莵道稚郎子命を祭神としている。社伝によれば、仁徳の時代、奈良別が下野国造として下毛野国に赴任したとき、莵道稚郎子の遺骸を奉じて当地に祀ったのに始まるといい、その後、延暦年間(平安時代)に坂上田村麻呂が蝦夷征伐からの帰途、報賽として現在地に社殿を造営し遷座したということだ。下野国寒川郡7郷の総鎮守とされる。
旧事本紀・国造本紀に「下毛野国造、難波高津朝(仁徳朝)、奈良別初賜国造」とあり、新撰姓氏録に「豊城入彦6世孫下毛君奈良」とあって、奈良別の系譜は、豊城入彦↓八綱田彦↓彦狭島↓三諸別↓奈良別と続く。奈良別の子に荒田別、賀我別(鹿我別)がいるのだが、下野国造の奈良別が菟道稚郎子を祀った由縁は定かでない。
宇治郡は宇知と訓まれ、「うち」は「内」で、三方を山で囲まれた地形の中の地の意味だという。宇治郡の郡衙は山科にあったのだが、現在の宇治市のあたりとみられる久世郡宇治町離宮社(宇治郷)には応神の離宮があり、宇治河の名はこれによるとされる。離宮は修造されて菟道稚郎子の御所となり、大山守が敗死した地ともされる。
近江の和邇氏は彦国葺(孝昭帝4世孫)に発し、近江国(滋賀郡)を本拠としたという。宇治連、宮道宿禰、小野朝臣などと同族で、応神の妃の矢河枝姫は和邇氏の女人で、宇治稚郎子の母だ。菟道宮に居たことから宮主と称されたといい、その宮跡に宇治神社が鎮座する。
◆矢田姫(皇女、応神と宮主宅媛の子)
仁徳の正妃となった矢田姫は、古事記では八田若郎女と記される。日本書紀・崇神紀は矢田部造の先祖を武諸隅と載せる。武諸隅は、出雲振根(出雲臣の先祖)が管理する神宝を奪い返しにいった人物だ。矢田部造は物部氏の一族だ。
奈良県大和郡山市矢田町に鎮座する矢田坐久志玉比古神社の祭神はニギハヤヒ(饒速日)で、『神祗志料』に「矢田神は今矢落明神という、矢田部氏の祖神櫛玉饒速日と妃の御炊屋姫なり」と記載されている。
旧事本紀・天孫本紀に、ニギハヤヒが、河内国に天下り、長髄彦の妹である御炊屋姫を妃とし、宇麻志麻治を生んだとある。新撰姓氏録・左京皇別は、「和邇部宿禰、彦姥津命四世孫矢田宿禰之後也」と伝え、同書・摂津国皇別は「韓矢田部造、豊城入彦命之後」とする。
矢田は谷田、八田などとも表記され、その地名は全国に散在する。大阪生駒山麓の西の住道を中心とする大阪東部の広範な地も、往古はヤタベと称され、さらに古い地名は摂津国に属する雄伴郡という名称で、淳和天皇の諱名が大伴であったことから、その名を避けて八部郡と記述されるようになったという。八部は、八田部の意で、韓矢田部氏の由緒地と見られている。
雌鳥姫、小鍋姫(宅姫の妹)、菟道稚郎姫らの事績は伝わらない。 |