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2021年11月03日 00:00
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新解釈・日本書紀 応神<第21回>

伴野 麓

 日本書紀・応神紀は、淡路島のことを「難波の西にあり」などと初めて踏査したように説明しているが、日本書紀・神代紀に記すように、淡路島は「国づくりが始まった島」とされている。であるなら、古くから知られた島のはずで、初めて踏査したような応神紀の記事と矛盾する。
この矛盾は、「神代紀の淡路」と「応神紀の淡路」とは別の意味であることを示唆する。つまり前者はアワジと読んで淡路島を指し、後者はタンロ(檐魯制は沸流百済の制度)と読み、沸流百済の王族を意味するということだ。後世にそれを同一視して、古代史を魑魅魍魎の世界に押しやってしまった。
司馬遼太郎は、淡路島について、次のように述べている。
「淡路島には、『海部』とともに『山部』も置かれた。山部は山林に入って仕事をし、猟もする。王朝直属の民として、それらを送り出す義務もあったのであろう。淡路島の古代は、海彦も山彦も、そして農耕者も、古代王朝を食べさせてやってきたことになる。この島が、神話でも優遇され、また島ひとつで一国だという礼遇をうけたことなども、多少はこういう有難味から出たものであるかもしれない」
淡路という語の読み方が、タンロからアワジに変質したことを知るなら、もっと別の見方で別の内容が述べられたかもしれない。

(30)対馬に任那・百済・新羅・高句麗の邑落(ゆうらく)国


応神25年、百済の直支王が薨じ、その子の久爾辛が王となったが、年が若かったので、木満致が国政を執った。王の母と通じて無礼が多かったので、誉田はそのことを聞いて呼びつけた。百済記によると木満致は、木羅斤資が新羅を討った時、その国の女を娶って生んだとある。父・木羅斤資の功によって任那を専らにし、百済や日本に往き来し権勢は盛んであったという。
木羅斤資が討った新羅は、対馬上島の佐護(現在の上県町佐護)にあった新羅で、卓淳・安羅・加羅などの7邑落は対馬、忱弥多礼は韓国の済州島に比定される。木羅斤資は、百済・倭との交通が便利で農業と漁業が営めるうえ軍事的にも要となる城山(今の黒瀬城山)の鶏知に任那国を建てたと考えられる。
日本書紀・応神紀25年条が引用する百済記の木満致は「木羅斤資が新羅を討つ際に、其の国の女と結婚して生んだ子である」とし、「彼は父の功により、任那を専断した」と記述している。そこに書かれた新羅は対馬の新羅を指す。任那王族の後孫とみられる対馬の阿比留氏の祖先は蘇我満智といわれているが、蘇我満智は木羅斤資の子である木満致と同一人物とされる。木羅斤資と木満致以後の約200年間は、その後孫が任那国の王として対馬を統治したのだ。
対馬の鶏知にある鶴山の前方後円墳は木羅斤資の墳墓とされる。古墳の築造年代が木羅斤資の活躍年代と一致しているからだ。また、鶏知の古墳群の墓制と同じものが韓国全羅道で発見された。このことから任那は対馬に比定、鶏知の鶴山の古墳と淡路の古墳群は任那王族の墳墓に比定される。同様の墓制が、百済の領域である現在の全羅南道海南郡で発見された。海南郡北日面の長鼓山古墳で、全長77メートル、円丘の直径44メートル、高さ9・4メートル、方墳の長さ38メートル、高さ8メートルの大型前方後円古墳だ。また(全羅南道)成平郡長鼓山の古墳も前方後円古墳ということだ。

2021-11-03 6面
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