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2021年09月08日 00:00
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新解釈・日本書紀 応神<第14回>

伴野 麓

 応神の年代が、熊津(仇乙)を首都にした時代と一致することから、日本書紀編著者は、熊津(仇乙=呉)から伝えられた機織りを、慰礼城(宇礼)から伝えられたものと考え、これを漢織りあるいは宇礼姫・呉姫としたのだろう。
阿比留緩治著『対馬神社誌』に織神大明神社が記され、祭神は宇礼姫と呉姫だ。社伝に「応神37年、支那(中国)の呉県の工女宇礼姫と呉姫が召されて本朝に来る途中、海荒れてこの浦に久しく寄り、里人に機織りの技術を伝えた理由で、後に祠を建てた」とある。
古事記には、呉姫(呉服)は百済から送って来たと記されている。宇礼は百済の首都・慰礼城に比定され、呉は一時百済の首都であった公州の仇乙に比定される。つまり宇礼姫と呉姫は百済から来たのだ。
中国の呉はAD280年に建国し452年で滅亡しているから、応神朝の頃は既に存在しない。阿智使主と都加使主が高麗国(高句麗)に行って、呉に行く道を尋ねたということは、呉と高麗が近いと考えていたということになる。呉は楊子江の下流にあり、高麗は平壌にあったから、近い距離ではない。阿智使主らが中国の呉に行って4人の縫工女を連れて来たということは考えにくい。
百済は高度の文化を享有し、日本に伝えられた文化は慰礼城や熊津から伝えられたもの、扶余から伝えられたものに大別される。日本語のクダラナイ(つまらない)という語は「クダラ(百済)の物でない」に由来するといわれており、珍品という姓氏をクダラと訓むことがそれを傍証する。裏を返すと、「百済ほど立派なものはない」という意味になる。

(20)丹後海部氏勢力が沸流百済に加担


応神の出生は多くの謎につつまれているが、梅原猛著『海人と天皇』では「応神天皇が仲哀天皇の子であることが疑わしいのであり」とし、古事記や日本書紀の描いた系譜に疑いを投げかけている。応神が仲哀と神功の子でないとしたら、応神の皇位継承の正統性は非常に薄らいでくる。
これまで述べてきたように、応神は高句麗の広開土王に撃破され、倭地に避難した沸流百済による亡命王朝だ。ここで注意しなければならないのは、その亡命王朝は、既存の倭地の王朝と、新たな侵略王朝とによる合作王朝だということだ。前者は和珥氏族の王朝であり、後者は沸流百済による王朝である。すなわち、沸流百済は自らの存在を黒子にして、和珥氏族の王朝を傀儡として倭地の実権を掌握したのだ。
その沸流百済の侵寇に抵抗したのが、仲哀の子とされる香坂王と忍熊王で、新羅系山陰王朝に属する軍団である。沸流百済の傀儡である神功は、香坂王と忍熊王の軍団を撃破し、新羅系山陰王朝の一員で当時の河内の頭領であった和珥氏族の王朝を接収し、実権を掌握した。
その時、丹後海部氏は沸流百済に加担して、和珥氏族の王朝の温存を工作したように思われる。というのも、『海部氏勘注系図』に見える建振熊宿禰は、息長足姫(神功)に加勢し、海部氏となって大和王朝に組み込まれているからだ。換言すれば、応神朝は和珥氏の祖とされる建振熊宿禰の王朝であったが、実権は沸流百済に握られていたということだ。

2021-09-08 6面
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