スターリンの指令と支援で南侵、毛沢東の支援で辛うじて生き残った金日成は、敗戦を雪辱するため、党内権力闘争で対抗勢力を除去した後、対南工作指導体系を整備した。非妥協の対南暴力闘争路線を堅持、戦争で破壊された韓国内の工作組織再建を急いだ。
韓国に帰順した人々や工作員たちは、労働党中央党の予算の70%が対南事業(工作)予算だったと証言するが、一体どうしてここまでの膨大な資金が必要だったのか。北側は休戦2カ月も経たない1953年9月13日、すでに開城に「松都政治経済大学」を設立した。南韓出身の幹部だけが入校対象だった。赤化統一後、韓国に派遣する幹部養成を目標としたが、対南工作員も養成した。
廃止した対南工作員養成機関だった「金剛政治学院」に代わる対南工作要員教育訓練機関も新設した。57年1月30日、金日成高級党学校の分校形式で創設された「朝鮮労働党中央委員会政治学校」(略称政治学校)が設立された。別名「統一大学」または「順安政治大学」とも呼ばれた中央党政治学校の校長は、中央党連絡部の副部長が当然職として兼任した。校長の下、政治部と軍事部、教務部と後方部(支援部門)を置いた。
赤化統一のためのこの大学出身者の中には、後に世紀的対南工作の工作員たちが多数輩出され、彼らが受けた工作訓練を証言した。中央党政治学校はその後「金星政治軍事大学」に改名、労働党調査部と作戦部のため工作員を養成し80年代初めには、「労働党中央委員会直属政治学校」に、そして、金正日50歳の誕生日を迎え、「金正日政治軍事大学」(作戦部)と「烽火政治大学」(調査部)に改名、分離されたという。北韓で金正日の名前を冠する唯一の大学がまさに革命戦士・対南工作員を養成する機関なのだ。
何れにせよ、労働党は北韓で最も出身成分が良く、優れた人材を一方的に金星政治軍事大学に入学するように命令、革命戦士として養成した。今は、これらのエリート対南工作員たちのため大学院課程まで運営しているという。
政治学校創立10周年になる67年1月30日、金日成が政治学校を訪れたため、金正日政治軍事大学では、大学(政治学校)の創立記念日でかつ金日成の現地指導日の1月30日を称えるため、朝鮮労働党「130連絡所」「130政治学校」という名称を使用、「695軍部隊」という偽装名称も使用するという。
北韓軍も総参謀部直属の偵察局などが対南工作を展開した。金日成はこのように韓国に比べて優越した国力を暴力革命に消耗する対南工作体系を構築したが、4・19の後、韓国が極度の混乱に陥っていたとき、これを赤化統一の決定的な機会にするのに失敗したのを痛嘆した。
金日成は64年2月の党中央委第4期8次総会で「3大革命力量強化」路線の採択と同時に、党南朝鮮局(連絡局)を「対南事業総局」(総局長李孝淳)に改編した。対南事業総局は当然、南韓内の地下党構築工作に邁進した。既存の地下工作組織を管理し、新しい組織を拡大した。65年11月には平壌の指導の下、金鍾泰などが、有名な統一革命党を組織した。対南事業総局はベトナム戦争に南北が共に派兵した後は、南韓をゲリラ戦場にしようと暴走することになる。
ところが、朴正煕大統領は、金日成の暴力革命路線に対抗、経済建設優先という長期的・戦略的布石を展開する。そしてベトナム戦派兵と韓日修交を進める。
(つづく) |