白永勳教授は当時、自分の恩師たちに会って借款が実現できるようにした。白教授の場合は、植民地と戦争の歴史の中で運命的に海外を舞台にすることになった数多くの韓国人たちが経験する挑戦と達成を経験した先例と言えよう。
大統領の外国訪問、頂上外交は細心の準備が必要だ。朴大統領は、ボンに到着後、駐西ドイツ大使館で共同声明などを検討した。夕方、西ドイツ大統領官邸で朴正煕大統領一行のための非公式晩餐会が開かれた。私的対話の中で、朴正煕大統領が最も関心を示したのは、ドイツの自動車専用高速道路のアウトバーン(Autobahn)だった。ハインリヒ・リュプケ大統領はアウトバーンをドイツの経済復興の象徴と言った。
朴大統領は、リュプケ大統領の訪韓を正式に要請、リュプケ大統領は即座に受け入れた。到着の翌日(12月8日)の午前、リュプケ大統領官邸で首脳会談が開かれた。公式行事が終わる頃、勲章交換があった。朴大統領は、リュプケ大統領夫妻に大韓民国の最高勲章である”むくげ大勲章”を授与した。この勲章は、「国家元首に授与され、友邦国家の元首も授与することができる」という賞勳法によって準備したもので、外国の国家元首としてはリュプケ大統領に初めて授与された。
朴大統領は、ボン市庁を訪問した後、午後にケルン市を訪問する。この日、朴大統領はボンとケルン間の高速道路を時速160キロメートルで走った。朴大統領は、往復2回の高速道路上で車を停め、車から降りて路面と中央分離帯、交差点施設などを注意深く観察した。車の中で、朴大統領を随行案内していたリュプケ大統領の儀典室長に高速道路について詳細に尋ねた。
「高速道路はどう建設しますか、管理はどうしますか、建設費はどれくらいかかりますか、そのお金はどう用意したものですか」など、朴大統領の質問はボンとケルンを往復する車中で続いた。儀典室長は、高速道路に対して豊富な知識を持っていた。西ドイツ地図を広げて高速道路網を紹介した。朴正煕大統領は儀典室長の説明を聞きながら熱心に手帳にメモした。
夕方7時、リュプケ大統領主催の晩餐会が始まった。朴大統領は晩餐に出席したルートヴィヒ・エアハルト総理と隔意ない意見を交わした。経済学教授出身のエアハルト総理は、真剣な態度で発展途上国の経済的課題についてアドバイスしてくれた。エアハルト総理は、その日、アウトバーンを走った朴正煕大統領にこのように話した。
「経済発展には、道路、港湾などのインフラ整備が先行されねばなりません。ナチスがやったことではありますが、アウトバーンを建設したことを、私は有難く思っています。アドルフ・ヒトラーが百年先を見据えて行った、この巨大な事業は、正当な評価を受けるべきだと思います。私は普段、アウトバーンに進入するとき、そしてインターチェンジ・ランプを回って出るとき、心の中でアウトバーンに敬礼をします。1958年、韓国を訪問しましたが、道路事情が良くないことがわかりました。発展途上国としては、高速道路の建設は大変な事業ですが、ドイツ国民は韓国民が経験したそういう時期に、産業動脈の建設を達成した誇りを持っています」
朴大統領は真摯に傾聴しながらうなずいた。エアハルト総理は、自分が48年から63年まで、経済長官を務めたとき、西ドイツの経済が復興した要因をいくつかに要約した。
(つづく) |