鈴木 惠子
高句麗に逃亡していた豊璋は、3年後の666年1月に日本に戻って来ました。高句麗に逃亡中の豊璋の様子はまったく不明ですが、滞在中に鎌足の正体に気づいた可能性があります。しかし、それを最期まで表に出すことはなかったようです。鎌足と大海人皇子は豊璋の扱いに苦慮したと思われますが、結局、豊璋を日本国天皇に迎えることにした鎌足は、翌年の3月に都を近江の大津に移しました。
豊璋がついに大津宮で天皇(天智)に即位したのは、43歳の668年1月のことでした。鎌足は24年前の約束を果たしたことになります。皇后に立てたのは、古人大兄の娘・倭姫王とされていますが、最初の妻と思われる百済人の茅渟娘を皇后に立てて、倭姫王と名のらせたとも考えられます。
天智天皇の政権は、最初は〈大皇弟〉大海人皇子と〈内臣〉中臣鎌足らで運営されましたが、発足から2年も経たない669年10月に、鎌足という頼もしい後ろ盾を失ってしまいました。しかし翌年、鎌足の長男・定恵が唐から帰国すると、護持僧として朝廷に侍らせたようです。その頃、天智天皇の10歳の娘・阿陪皇女(後の元明天皇)が痘瘡という病で苦しんでいた時に、定恵が祈って回復させたことが桑実寺に伝えられています。
やがて、671年正月に息子の大友皇子を〈太政大臣〉に任じ、多くの百済からの亡命者に爵位を授けて政権の基盤を固め、第二の百済国建設へと歩み始めました。しかし天智天皇は、その年の12月3日に46歳で崩御してしまったのです。わずか4年余りの治世でした。
日本書紀には、天智天皇は病死であるかのように記されていますが、暗殺されたようです。その根拠は、万葉集・第二巻(0151)の額田王の歌にあると考えています。定説では次のように読まれています。
『如是有刀、予知勢婆、大御船、泊之登万里人、標結麻思乎』
<こんなことになると、あらかじめ知っていたなら、天皇が船遊びをされたあの時、船が停泊した港に、注連縄を張り廻らしておきましたものを>
しかし、このように読んでみました。
『如是有刀、予知勢婆、大御船、泊之登、万里人、標結麻思乎』
如是有刀=中国語、如是=これに及ぶ。有刀=切ることが生じる。このことから、「斬られました」
予知勢婆=前もって知ることができたならば。
大御船=天皇の船。
泊之登=停泊している所。
万里人=莫離支。
標結麻思乎=「乎」を中国語の疑問の語気詞と捉えて、「なぜ、縄を張り廻らせたのですか」
以上のことから、このように解釈しました。
<斬られました。前もって知ることができたならば、こんなことにならなかったのに。天皇の船が停泊している所に、莫離支、なぜ縄を張り廻らせたのですか>
額田王は、船の周りに縄を張り廻らせた人物を莫離支であると言っています。すると、天皇に刺客を放ったのも莫離支であるようです。額田王は、万葉集・第一巻(0009)の歌でも、夫の大海人皇子のことを莫離支と呼んでいたので、天智天皇は、大海人皇子=淵蓋蘇文の策略で暗殺されたことが推察されます。 |