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最終更新日: 2020-11-18 09:01:27
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2020年11月11日 00:00
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海を渡った先人達(68) 先人11人目 孝徳天皇②

(5月22日)翹岐の子が死んだ。翹岐と妻は、子の死んだことを畏れ忌み、どうしても喪には臨まなかった。百済・新羅の風俗では死者があると自ら見ようとしない。これを見ると甚だしく慈愛のないこととされる。
(5月24日)翹岐は妻子を連れて百済(今の奈良県桜井市あたり)の大井(桜井)の家に移った。人を遣わして、子を石川に葬らせた。
(7月22日)百済の智積らに朝廷で饗応した。力の強い者に命じて、翹岐の前で相撲を取らせた。智積らは宴会の終了後、翹岐の家に行き、門前で拝礼した。
これらの記述から、何らかの罪で島流しにされた義慈王の弟王子と翹岐ら一族は、倭国に亡命して倭王・入鹿に保護されたこと、641年11月頃に死んだとされた智積は生きていたこと、そして翹岐には妻と数人の子がいて、子の一人が亡命後4カ月で亡くなったことなどがわかります。
翹岐と智積の名が出現する最後の日は642年7月22日ですが、頻繁に登場していたにもかかわらず、突然姿を消したこと、そして翹岐と智積が亡くなったとの記事がないのは、たいへん不自然に思います。
巨勢臣徳太と軽皇子という人物が日本書紀に初めて登場するのは、642年12月13日のことです。『この日、巨勢臣徳太が、大派皇子に代わって偲びごとを詠んだ。次に、粟田臣細目が、軽皇子に代わって偲びごとを詠んだ』とあります。
軽皇子は、後の孝徳天皇ですが、軽皇子の「軽」という名は、加羅や韓人など韓半島に通じているので、百済の翹岐との関連が推測されます。また、巨勢臣徳太という人物は、後に孝徳天皇(軽皇子)によって左大臣という臣下の最高位に採り立てられて天皇の右腕になっています。百済の智積も、翹岐の門前で拝礼したことから、翹岐の忠臣と思われます。
このように、翹岐と智積、軽皇子と巨勢臣徳太は非常に強い関係で結ばれていることが推察されることから、日本書紀から突然姿が消えた翹岐は軽皇子と名を替え、智積は巨勢臣徳太という名に替えた可能性が非常に高いと考えられます。
軽皇子と名を替えた翹岐が、中臣鎌足(金春秋)の推挙で日本国最初の天皇(孝徳)に即位したのは、倭王・入鹿殺害事件のわずか2日後の645年6月14日のことでした。その1カ月後の7月10日、百済の使いが任那の調を奉った時のことでした。欠けるところがあったとして調を返却したのです。これは、自身を流刑に処した義慈王への嫌がらせだったのでしょうか。因みに、新羅の任那の調は取り止めています。
孝徳天皇は、654年8月に東国の国司らを朝廷に呼んで、『今、初めて日本国内のすべての国々を治めようと思う』と宣言しました。その後、仏教をより一層盛んにするために「大寺」に僧尼を集めると、その中から十師を選びました。十師の中の旻法師を「百済寺」の寺主とし、恵妙法師を寺司に任じました。
この「百済寺」とは、聖徳太子(倭王・馬子)が605年に琵琶湖の東の山中に創建した百済寺のことではなく、639年に桜井の百済川のほとりに創建された「大寺」のことのようです。その大寺に「百済」という名称が付けられて「百済大寺」と呼ばれるようになったのは、百済系政権の孝徳天皇の時だったと考えられます。

2020-11-11 6面
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