653年には、完成したばかりの難波の朝廷に孝徳天皇を一人残して中大兄皇子と大海人皇子(後の天武天皇)ら王族・百官らが、飛鳥の河辺の行宮に移るという珍事も起きています。この動きは、鎌足が孝徳天皇の排除に着手したことを示唆しているのかもしれません。
この時、皇太子・中大兄の弟とされる大海人皇子が、日本書紀に初めて登場しています。大海人の意味は、「年上の、海という名の人」と解釈されますが、海という名から高句麗の淵蓋蘇文がイメージされます。淵は水の深いところという意味なので、海に通じているからです。淵蓋蘇文は金春秋に642年10月に高句麗で初めて出会っていますが、以来、信頼関係を結び春秋の要望に協力するようになったようです。
ところで653年は、鎌足の長男・定恵が学問僧として唐に渡った年でした。二つの船で出航しましたが、定恵が乗った船は無事に唐に到着し、別の船は沈没して生還者はわずか5人でした。まさに命がけの渡航でした。その後654年1月に、鎌足は紫冠を授けられているので何かの手柄を立てたようです。恐らくその頃と思われますが、安見児という女性を妻にしました。
『吾はもや、安見児得たり、皆人の得がてにすといふ、安見児得たり』 万葉集にある、この鎌足の歌からは、皆が羨むほどの美女を得た喜びが伝わってきます。そして鎌足の姿は、654年以降10年間、日本書紀から消えることになります。
一方、新羅では654年3月に眞徳女王が崩御しました。すると金春秋が推挙されて王位を継ぎ、武烈王(在位654~661年)になったのです。日本では、その年の10月に孝徳天皇が病死したとされています。春秋(鎌足)と蓋蘇文(大海人)による孝徳天皇の排除が実行されたようです。
孝徳天皇の死後、天皇の座に就いたのは皇太子・中大兄と思いきや、孝徳天皇の同母姉で皇太子の母・宝皇女(斉明天皇・在位655~661年)でした。この人事も鎌足が関与したと見ています。
金春秋の野望の実現に協力した人物は、蓋蘇文以外にもいました。高句麗僧の道顕です。道顕は『日本世紀』を著したことで知られていますが、高句麗の宝蔵王の寵臣・先道解と思われます。道解の中国語の発音は〈タオ・チィエ〉で、道顕は〈タオ・シィエン〉ですが、よく似ています。
金春秋が高句麗で拘束されていた時に、道解との会話からヒントを得て、高句麗王に偽りの手紙を書くことで解放されたという話が伝えられています。このような有能な道解を金春秋が引き抜き、道顕と名を変えて、斉明天皇の参謀として送り込んだ可能性を捨てきれません。実際、斉明天皇は、大規模な土木工事や宮の造営などを命じましたが、道顕の献言で行われた可能性が非常に高いと考えています。大規模な土木工事などは国の財政を破綻させ、人民を疲弊させ、倉の食料も底をつき、百済への援軍を阻止する効果が得られるからです。
鎌足(春秋)と鏡姫との間に次男・史(不比等)が生まれたのは、659年のことですが、新羅王としての忙しい政務にもかかわらず密かに日本に来た時期を探ると、658年10~11月頃のようです。 |