キムヒョンア博士は、韓国の知識人たちは祖国の問題を解決するため、民族主体性に立脚した「強力な指導力」と「自由民主主義の具現」を渇望するようになったと言った。
一方、朴正煕は知識人たちとは違って、強力な指導力と西欧の自由民主主義は両立できないものと考えた。「民族自主性と経済発展の確保」という目標は同じだったが、「西欧式の民主主義が文化的、歴史的な土壌の異なる韓国には適さないと」と考え、「統一もすぐには不可能」という現実主義的立場を取った。
植民地の韓半島で生まれ、軍人の道を選択し、国家存亡の戦争を乗り越えてきた朴正煕と、観念論的な傾向の知識人たちの考えは違うのが当然だ。何よりも、朴正熙は空腹と貧困をなくすという実存的で確固たる目標を一時も忘れたことがない。
要するに、知識人たちと朴正煕勢力は、民族主義的な価値、つまり自主性のある富強な国家建設には同意したが、その達成方法においての異見は解消できなかった。軍政期間中は近接していたように見えた革命勢力と知識人たちの国家建設への観点は、民政への移譲を前に遠くなった。
もちろん、知識人たちと言っても一つの範疇にまとめられる集団ではない。事実、韓国の近代化革命は、数多くの知識人たち、特にテクノクラートたちの呼応と参加なしには不可能だったからだ。そして、歴史は朴正煕時代が終わってから一世代も経たないうちに、朴正煕に反対した多くの韓国人知識人たちが、朴正煕のリーダーシップが韓国を圧縮的な近代化へと導いたと認めるようになる。
朴正煕議長は1962年12月27日、最高会議の本会議室で1年ぶりに公式記者会見を行った。ここで、大統領選挙は4月初旬に、国会議員選挙は5月下旬に実施すると発表した。朴正煕議長の会見は63年1月1日付の新聞で一斉に報道された。
「民主主義は理想でかつ目標だと思う。たどり着く道はいろいろある。西欧式の道もあり、自分の道もあるから、行く道は異なり得る。必ずこの道でなければならないという不変の道はない。韓国は韓国民の現実に合う方式を選択すべきだ」
自由民主主義を理念として建国されてから、その民主主義を主観的(あるいは主体的)に解釈した土台の上で「西欧式の民主主義を韓国の現実に合った韓国式の民主主義に改造する」と宣言した人は、朴正煕だけだ。
民主主義を至高至善の神聖不可侵の存在として崇拝していた多くの知識人や政治家たちに、朴正煕のこのような態度は、不届きな挑戦と受けとめられる。
朴正熙はこの頃、自分の歴史観、革命観、国家観、民主主義観を語る本を出そうとした。代筆者として推薦された人は、自由党国会議員だった朴相吉。朴議長は63年1月中旬、朴相吉を招待し「私を助けてください」と頼んだ。朴相吉は「煩わしい言葉や婉曲な表現は全くなく、簡潔、素朴なたった一言だった」と覚えている。顔を見たら「眼光は岩をも穿つようだったが、どこか疲れて憂愁が漂う悲壮感のようなものが見えた」と言った。数日後、夜10時頃、朴議長は朴相吉を議長公館へ呼んで本論を打ち明けた。
「革命というのをやったが、国民もそうで、漢江橋を一緒に渡った者(革命同志)らも正確に私の心情が分からず、米国人もそうで、先生や教授たちもわけの分からない話ばかりだ。胸の内をきっぱり打ち明ける方法がないでしょうか」
(つづく) |