金鍾泌部長は芮春浩をホテルに呼んで約4時間、いろいろ話しを聞いた。芮春浩は金鍾泌が理知的で冷徹で年齢に比べて落ち着いている印象を受けた。芮春浩は「5・16軍事革命の不可避性は認めるが、軍人たちが政治に介入するのが賢明と言えるか」と言い、自分が思う理想的な社会像について力説したという。朴正煕議長も年末に教育場だったソウル楽園洞の春秋章を訪ね20分ほど報告を受けた。
政治活動禁止が解除される1963年を前に、朴正煕と金鍾泌は、彼らが革命公約で表明した「斬新でかつ良心的な政治家」の育成に成功したようだった。再建同志会が確保した約1000人の党の基幹要員は、能力や道徳性の面で人材集団と言えた。後に反朴正煕に回ることになる批判的な知識人らもこの時、革命政府の路線に同感、同調する人々が少なくなかった。韓国の現代史において葛藤関係だった権力と知性が国家、国民、国益のため協力できる雰囲気でもあった。
当時、韓国の知識人社会の意思疎通の場だった月刊雑誌の『思想界』(61年3月号)の巻頭言は「自由は政治的な面から経済的、社会的へ拡大されねばならず、その物質的基盤として力強い経済建設が伴わねばならず、その精神土台として国民の紀綱が確立せねばならないのは言うまでもない」と掲載された。『思想界』発行人の張俊河は、4月号の巻頭言で「もし、国会と政府が、これ以上に優柔不断と無能、無計画なら、本誌も民族的自活の道を切り開くため、容赦ない闘争を展開せざるを得ないことを添付しておく」と警告した。
5・16革命の直後発刊された『思想界』6月号の巻頭言は事実上、軍事クーデターを支持した。この巻頭言は「政治生理と思考方式におけて、自由党と本質的に違いのない民主党は、派閥争いと利権運動に没頭し貴重な時間を浪費し、その結果、奢侈、退廃、敗北主義の風潮が、この国土を風靡し、この隙間を利用して北韓共産徒党が、内部を混乱させるため、百方手を尽くしてきた」と指摘した。
さらに「4・19革命が民主主義革命なら、5・16革命は腐敗と無能と無秩序と共産主義の策動を打破し、国家の進路を正そうとした民族主義的軍事革命だ」と解釈した。そして巻頭言は「革命政権に権力が集中しているので、権力の乱用を防ぐため万全を期すべきだ」と警告した。
『思想界』7月号の張俊河記名の巻頭言も「共産党の全体主義的恐怖勢力を粉砕できる最大の思想的武器は、民主主義的自由の善用から求めるべきだ」とし「革命政府は、民主主義を新しい精神と内容をもって復旧する一連の方策を準備すること」を勧告した。
このような雰囲気の中、朴正煕も「5・16革命は4・19義挙の延長であり、道義と経済の再建は4・19義挙のとき抱いた念願だった」(4・19義挙2周年記念の辞)と言い、「4・19学生革命は、表面上の自由党政権を打倒したが、5・16革命は、民主党政権という仮面をかぶって妄動する内面上の自由党政権を倒したのだ」と書いた(『国家と革命と私』)。
豪州国立大学で『朴正煕の自主思想』という論文で博士号を受けた金ヒョンアは「4・19以降、『思想界』を媒介にして行われた韓国の知識人たちの討論は、朴正煕の統治理念の枠組みの形成に大きな影響を与えた」と分析した。
知識人たちは、韓国が真の自主性を確保しておらず、反共の美名の下、政治的腐敗が蔓延し既得権層が政治を牛耳っているという自覚に到達したと言った。
(つづく) |