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最終更新日: 2020-07-08 00:00:00
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2020年06月17日 00:00
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海を渡った先人達<50> 先人9人目 崇峻天皇⑥

 ウィキぺディアに、阿佐太子について次のように記されています。
「百済の王族出身画家。威徳王の息子。日本に来て、聖徳太子の肖像画を描いたと伝えられる。これは日本最古の肖像画とされ、『聖徳太子及び二王子像』『阿佐太子御影』などと呼ばれ、法隆寺に収蔵されていた」
この文中の「威徳王の息子」は、「聖明王の息子」が正しいと思いますが、阿佐太子は画家とあり絵が得意だったようです。青春の多感な日々、絵を描いて過ごしていたのかもしれません。
ところで、1950年に千円紙幣の肖像画に、58年には壱万円紙幣の肖像画に採用された人物は、阿佐太子が描いたとされる「聖徳太子及び二王子像」の中央にいる人物でした。日本銀行はこの人物が聖徳太子であると信じて疑わず、84年に福澤諭吉に替わるまで、日本の最高額紙幣の顔として26年間も君臨していました。
すでに<蘇我氏(7)>(4月22日号)のところで、聖徳太子は蘇我馬子であり、馬子は倭王・蘇我稲目の第2子・訳語田渟中倉太珠敷尊であると述べました。その馬子は、兄王子の死後554年1月に太子に立てられています。阿佐太子が聖徳太子と二人の王子の肖像画を描いたとすれば、蘇我馬子が太子に立てられた554年から、阿佐太子が百済王に即位する557年の間と考えられます。
馬子(聖徳太子)が生まれた年は、死去年の622年から勘案すると540~550年頃になり、554~557年は馬子の年齢はわずか5~18歳の範囲で考えられます。仮に15歳頃で妻を娶り、2人の王子が生まれていたとしても、3歳と1歳くらいなのです。しかし、左右の2人の王子は12歳と10歳くらいに見え、中央の人物は40歳くらいの壮年のように見えます。すると中央の人物が聖徳太子である可能性は、非常に低くなります。
肖像画が描かれた時期として、日本書紀の欽明天皇十二年(551年)三月の次の記述に注目しています。
『百済の聖明王は、551年3月から12月にかけて、自国と新羅・任那の兵を率いて高麗を討ち、漢城(今のソウル)を回復した。軍を進めて平壌を討った。すべて六郡の地が回復した』
漢城の回復は百済にとっての悲願であり、大きな喜びだったに違いありません。倭国にいた27歳の阿佐太子も、漢城などの回復に協力してくれた稲目王に感謝の気持ちを表す意味で、年が改まった552年正月以降に、稲目王と二人の王子の肖像画を描いたことが想像できます。そうであれば「聖徳太子及び二王子像」の聖徳太子とされている中央の人物は、聖徳太子の父、倭王・蘇我稲目であり、二人の王子のうち稲目王の左側にいる人物が、後の聖徳太子(蘇我馬子)であろうと思われます。そして、肖像画が描かれたのは552年4月に長子の箭田珠勝大兄王子が死去しているので、552年1~3月頃の間に絞り込むことができそうです。
その後、百済はせっかく取り戻した漢城を553年7月に新羅に奪われてしまいます。その3カ月後の10月、29歳の阿佐太子は高句麗へ出兵し高句麗王を東聖山に追い退けています。

2020-06-17 6面
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