威徳王の王子が三輪君逆を殺害した後、守屋と共に倭王・馬子の排除に乗り出したと前回述べました。そのことは、崇峻天皇紀587年5月のところに、『守屋は、穴穂部皇子を立てて天皇にしようとした』と記されていることから推察されますが、日本書紀の編者が威徳王の王子の名を出さずに架空の人物の穴穂部皇子を登場させたことに、作意を感じざるを得ません。
物部守屋と威徳王の王子の陰謀を察知した馬子王は587年6月に、まずは威徳王の王子を殺害させると、ただちに早馬を筑紫の将軍たちのもとに遣わし、「国内の乱れによって、外事を怠ってはならぬ」と命じました。そして翌588年7月に、大軍をもって守屋を討伐したのです。守屋が滅ぼされたのは、定説では馬子と守屋の宗教観の対立からのように言われていますが、守屋の謀反が原因のようです。
敵と味方双方に甚大な被害を出したと思われる壮絶な戦いは、国内が大変乱れ荒廃しました。馬子王は、百済の王子、守屋、そして双方の犠牲者の成仏を願い供養するために、討伐戦が終息した588年中に、飛鳥の真神原に「法興寺」の建立を決意します。
王子の死が百済にどのように伝えられたのかは窺い知ることはできませんが、威徳王からは仏舎利が献上されるとともに、9人の僧や多くの寺院建築者・画工らが派遣されたのです。因みに元号「法興」元年は、590年にあたります。
日本書紀には、馬子王は、泊瀬部皇子(威徳王の王子)を592年11月に暗殺させたとありますが、587年6月に殺害させた穴穂部皇子は泊瀬部皇子でもあるので、この時すでに亡くなっていることが確認できます。しかし、その2カ月後の587年8月に、亡くなっている皇子が天皇に即位したことになっているのです。泊瀬部皇子(威徳王の王子)が武寧王の曾孫であることを考慮すると、桓武天皇の時に天皇に祭り上げ、天皇紀を創作したことが推察されます。
威徳王の王子は、なぜ馬子王の排除を謀ったのでしょうか。それは祖父の聖明王以来の、倭王による百済王への圧迫が関係していたのかもしれません。「倭王の圧迫」とは、次のようなことだったと考えています。
倭国が実権を握っていた伽耶諸国(任那)の南加羅などが532年頃に新羅に併合されたことで、倭国に居住する伽耶系の人々の不満や鬱憤が蓄積していたことは容易に想像できます。536年頃にこのような状況下の倭国の王に即位した蘇我稲目は、伽耶諸国の管理を任されていた百済国の聖明王(在位523~554年)に、南加羅などが新羅に併合された責任を問うとともに、復興を何度も催促したのは、伽耶系の人々の不満の矛先が倭王に向けられることを避けるためだったのかもしれません。
しかし、任那の再建は一筋縄ではいきませんでした。なぜなら、百済王の何度もの倭王への訴えにもかかわらず、新羅と通じて任那の復興を阻む人物を稲目王はなぜか積極的に排除せず、任那を利用して百済・新羅・高句麗のそれぞれの国に対して駆け引きを巡らせていた節が見受けられるからです。その後、聖明王の後を継いだ威徳王の時の561年頃に、ついに伽耶諸国(任那)のすべての領域が新羅に併合されるに至ったのです。 |