中国武漢市で2019年11月に発生が確認され、同年12月31日に世界保健機関(WHO)へ最初の報告がされてから3カ月以上が過ぎた。世界規模で武漢コロナウイルスの感染被害が日々深刻さを増している中、北朝鮮は3月に4回のミサイルと思しき飛翔体を発射し、満面の笑みをたたえている金正恩と軍人たちの写真を、北朝鮮労働党機関紙に大きく載せていた。こみ上がる「怒り」を「ちから」に変え、北朝鮮民主化のための活動をより精力的に行うつもりである。
3月中旬から気持ちがダウンして、疲れやすくなってくる。疲れの原因は季節の変わり目ではなく、北朝鮮の人々が患う「4月病」のためだ。北朝鮮を離れて10年が過ぎてもまだ治っていないのだ。「4月病」とは、4月15日の金日成の誕生日の準備で、老若男女が疲れて心身ともに患う病気のことで、死ぬまで治らないといわれる。
金日成は1968年に自身の誕生日を北朝鮮の最大祝日に指定し、72年4月15日の還暦祝賀行事を盛大に催して、その時から国庫を私物化し蕩尽している。この金日成誕生60年祝賀に、朝鮮総連の指示下で朝鮮大学の学生ら若者約200人がお祝いの手紙を手渡すため、北朝鮮にバイク行列で行き、そのまま北朝鮮に残った。彼らは不幸になったはずだ。北朝鮮では金日成を指して「太陽」と呼び、1994年7月8日に亡くなってから3年目に、4月15日を「太陽節」と制定した。
70年前後から本格的に始まった「太陽節」祝賀関連行事のために、全国民が3月15日から寝る時間まで削られながら総動員された。芸術祭やマスゲームのための演習・装置製作・衣装を自己負担で準備し、「忠誠の資金」として現金か貴金属をノルマ分納付し、金日成銅像史跡地掃除、運動会演習、金日成革命業績勉強と暗記大会などなど、大変で倒れる者も続出した。まだ寒くて、電気も暖房も水も食料も不十分な中、子供から老人まで毎日一日中、朝5時に宣伝車からの放送で起床してから夜中まで忙しく、頭が変になりそうだった。
4月15日が終わると、特別配給で子供たちにお菓子1キロと世帯ごとに食糧15日分と油1瓶、豚肉1キロ、味噌などの配給があった。節目の年には学生服をプレゼントとしてもらい、1世帯に1枚の毛布などが施された。こんなものをもらうために必死で当局の指示に従った自分と人々を、今も苦々しく思い出す。今はそのプレゼントの量が減って、1世帯に油1瓶ぐらいしかもらえないのに、その何十倍もの搾取を強いられている。
金日成誕生祝賀会が終わると思想闘争会が組織的に行われ、恐怖の日が半月ほど続いて、いろいろな形の処罰が科せられる。金日成とその側近たちは幸せかもしれないが、国民は「4月病」でやつれ果てた姿になる。
日本に来て、春になって他の季節よりダイエットを奨励する宣伝文句を見るたびに、「4月病」で望みもしないダイエットをさせられる北朝鮮の人々を思い出す。
個人的にはみんなの苦しみにプラスして、姉のことで悲しくなる。北朝鮮では、法律では禁じられていないものの、金氏3代独裁者たちと誕生日が同じ者は生年月日を変更しなくてはならないという暗黙のルールがあった。だが父は姉の生年月日を変えなかった。そして姉も、そのことに関して一切文句なしに不利益を受け止めていた。多分、北朝鮮にいる限り死ぬまで自分の誕生日を幸せに送ることはないはずだ。
4月の節気である清明の日(4月5日ごろ)に北朝鮮では墓参りをして、その日に「4月病」の厄払いをする人もいる。
北朝鮮が存在する限り、金日成の誕生日=「太陽節」を祝うための忠誠祭は終わらないから、「4月病」も永遠に治らないはずだ。北朝鮮を離れても、30年以上の習慣を体の細胞が覚えていて、これがいつ完治するか、私の経験を記録して世に教訓として残そうと思う。「4月病」がもし死ぬまで治らなかったらと思うと、怖い。 |