ログイン 新規登録
最終更新日: 2020-02-19 00:00:00
Untitled Document
ホーム > 連載
2020年01月22日 00:00
文字サイズ 記事をメールする 印刷 ニューススクラップ
 
 
海を渡った先人達<32> 先人7人目 雄略天皇④

 倭国では、427年頃は、倭王・讃の政権だったと思われますが、讃(腆支)がいつ頃死去したかについては、不明と言わざるを得ません。では、讃(腆支)の死去後に倭国の王になったのは、誰だったのでしょうか。

宋書によると、430年に名が不明の倭王が朝貢しています。次の438年に朝貢した倭王は、珍という名です。現在、珍は反正天皇に比定されていますが、すでに反正天皇を百済の毗有王に推定しました。そして、443年と451年に朝貢した済は允恭天皇に比定されていますが、允恭天皇は新羅の未斯欣であろうとすでに考証済みです。このような状況の中、珍と済の謎解きは、困難を極めそうです。

倭王・珍と済が誰であるのかを探る前に、現在、安康天皇(在位453~456年)に比定されている倭王・興について考えてみたいと思います。

460年12月に、名が不明の倭王が宋に朝貢しています。
翌年(461年)、百済の蓋鹵王が昆支を倭国に遣わし、その後、462年に倭王・興が宋に朝貢していることから、460年に朝貢したのは百済の昆支であった可能性が高いと思います。すると、在位453~456年の安康天皇の可能性はなくなるので、倭王・興は、百済の昆支であろうと推定できます。

昆支は、475年に蓋鹵王が高句麗によって殺害されると、倭国に避難していた太子の文周とともに百済に帰国しました。そして、熊津(現在の公州市)を都として文周が百済王に即位すると、昆支は477年4月に内臣佐平という高官に就きました。しかし、そのわずか3カ月後の7月に死去したのです。暗殺されたのかもしれません。そして昆支の死の翌年478年9月に、百済王・文周も兵官佐平(役職名)の解仇によって暗殺されてしまいます。

その後の百済国は、どうなったのでしょうか。
478年9月に、文周王の子・三斤13歳が兵官儡(あやつり人形)になったのです。

479年春、解仇と恩率(役職名)の燕信が背いて、多くの人を集めて大豆城に立て籠もると、三斤王は、2千の兵で討たせましたが、勝つことができませんでした。次に兵500人の優秀な軍隊で攻撃したところ、解仇は死亡し、燕信は高句麗に逃亡しました。三斤王は、480年11月に崩御したとされています。

三斤王の次に百済王になったのは、479年に即位した東城王(在位479~501年)です。東城王は、百済本紀によると、文周王の弟・昆支の子で、牟大、摩牟などと呼ばれ、肝っ玉が大きな人で弓を射れば百発百中だったとあります。

この東城王の即位年が、三斤王が崩御したという480年の1年前とされていることについて、次のように考えています。

雄略天皇二十三年(479年)四月に、『百済の文斤王(文周王)が亡くなった。天皇は、昆支王の五人の子の中で、二番目の末多王が若いのに聡明なのを見て、百済の王とした。兵器を与え、筑紫国の兵士・五百人を遣わして国に送り届けた。これが東城王である』とあります。

2020-01-22 6面
뉴스스크랩하기
連載セクション一覧へ
黄教安が招いた混乱、歴史的責任
金正恩は体制崩壊を止められるか
新型肺炎が全体主義体制を痛打
金融危機の懸念増大
大法院判決 徴用工で初の韓日共同抗議
ブログ記事
精神論〔1758年〕 第三部 第13章 自尊心について
美学と芸術の歴史 第四章 北方ルネッサンス
美学と芸術の歴史 第三章 イタリア・ルネッサンス
公捜處は憲法破壊
精神論〔1758年〕 第三部 第12章 権勢の追求において
自由統一
金正恩は体制崩壊を止められるか
北の人権侵害 傍観者決めこむ文政権
北韓の電力不足 世界最悪レベル
金正恩体制で続く異常徴候
海兵隊、北側の要塞化した島嶼を焦土化計画


Copyright ⓒ OneKorea Daily News All rights reserved ONEKOREANEWS.net
会社沿革 会員規約 お問合せ お知らせ

当社は特定宗教団体とは一切関係ありません