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最終更新日: 2020-10-28 00:00:00
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2020年01月22日 00:00
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海を渡った先人達<32> 先人7人目 雄略天皇④

 倭国では、427年頃は、倭王・讃の政権だったと思われますが、讃(腆支)がいつ頃死去したかについては、不明と言わざるを得ません。では、讃(腆支)の死去後に倭国の王になったのは、誰だったのでしょうか。

宋書によると、430年に名が不明の倭王が朝貢しています。次の438年に朝貢した倭王は、珍という名です。現在、珍は反正天皇に比定されていますが、すでに反正天皇を百済の毗有王に推定しました。そして、443年と451年に朝貢した済は允恭天皇に比定されていますが、允恭天皇は新羅の未斯欣であろうとすでに考証済みです。このような状況の中、珍と済の謎解きは、困難を極めそうです。

倭王・珍と済が誰であるのかを探る前に、現在、安康天皇(在位453~456年)に比定されている倭王・興について考えてみたいと思います。

460年12月に、名が不明の倭王が宋に朝貢しています。
翌年(461年)、百済の蓋鹵王が昆支を倭国に遣わし、その後、462年に倭王・興が宋に朝貢していることから、460年に朝貢したのは百済の昆支であった可能性が高いと思います。すると、在位453~456年の安康天皇の可能性はなくなるので、倭王・興は、百済の昆支であろうと推定できます。

昆支は、475年に蓋鹵王が高句麗によって殺害されると、倭国に避難していた太子の文周とともに百済に帰国しました。そして、熊津(現在の公州市)を都として文周が百済王に即位すると、昆支は477年4月に内臣佐平という高官に就きました。しかし、そのわずか3カ月後の7月に死去したのです。暗殺されたのかもしれません。そして昆支の死の翌年478年9月に、百済王・文周も兵官佐平(役職名)の解仇によって暗殺されてしまいます。

その後の百済国は、どうなったのでしょうか。
478年9月に、文周王の子・三斤13歳が兵官儡(あやつり人形)になったのです。

479年春、解仇と恩率(役職名)の燕信が背いて、多くの人を集めて大豆城に立て籠もると、三斤王は、2千の兵で討たせましたが、勝つことができませんでした。次に兵500人の優秀な軍隊で攻撃したところ、解仇は死亡し、燕信は高句麗に逃亡しました。三斤王は、480年11月に崩御したとされています。

三斤王の次に百済王になったのは、479年に即位した東城王(在位479~501年)です。東城王は、百済本紀によると、文周王の弟・昆支の子で、牟大、摩牟などと呼ばれ、肝っ玉が大きな人で弓を射れば百発百中だったとあります。

この東城王の即位年が、三斤王が崩御したという480年の1年前とされていることについて、次のように考えています。

雄略天皇二十三年(479年)四月に、『百済の文斤王(文周王)が亡くなった。天皇は、昆支王の五人の子の中で、二番目の末多王が若いのに聡明なのを見て、百済の王とした。兵器を与え、筑紫国の兵士・五百人を遣わして国に送り届けた。これが東城王である』とあります。

2020-01-22 6面
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