ところが、全テクボが説明しても朴正煕は明確には理解していないようだったという。
「私が1947年、香港で目撃したことです。香港には毛沢東軍に追われて洪水のように押し寄せてきた避難民たちがあふれていました。飲み水まで輸入する香港で、数百万の避難民が活気あふれて暮らしているのを見て、その秘訣が気になりました。「保税加工貿易」をして生きていましたね。香港よりはわれわれの環境が有利と思います」
朴正煕は「保税加工貿易」の意味が分からないようだった。朴正煕は「申し訳ありませんが、明日もまた来て説明していただけますか」と言った。翌日も企業人たちの「経済講義」が続いたという。
金容完社長は「大学が多すぎる。4年制大学の半分を技術専門大学に改編し人材を養成せねばならない」と提案した。
金社長はまた、「不正蓄財の疑いで逮捕された企業人たちを解放して欲しい。企業人とアリのように死ぬまで働く運命の人々です。仕事のできる企業人を育成するには20~30年かかります」と言った。
鄭寅旭社長は「韓国では、地下30メートル以上の深層にどのような鉱物があるか探査したことはありません。地下を探査して失業者に職場を提供すべきです」と言った。経済政策を探し求めていた朴正熙は、これらのアドバイスを真剣な姿勢で聞いたため、むしろ企業人たちが緊張感を感じたという。
62年1月初め、朴正煕議長の経済企画院年頭巡視があった。軍用ジャンパーを着て大きな黒眼鏡をかけた朴議長が、国家再建最高会議の幹部たちを連れて会議場に入った。金裕澤経済企画院長官が丁寧に出迎えた。
この日の報告は、その年の1月1日から始まった第1次経済開発5カ年計画の内容だった。報告者は、韓国銀行の安鍾稷総合計画局長であった。安局長は数値の多い報告を1時間ほどした。説明が終わるとしばらく沈黙が続いた。朴議長はタバコに火をつけ深く吸い込んだ。しばらくして口を開けた。
「ところで、技術分野には難しい問題がないのですか。今、われわれが新しい工場を建設するとき、現在持っている技術水準と技術者たちだけで、それが可能なのか。そうでなければ、それにどんな対策がありますか。この点を説明してください」
報告会に陪席した全相根(科学技術処企画室長を務め)氏の回顧によると、「朴議長の声は低く、丁寧な言い方だったが、そこに出席した人たちには全く予想外の質問だった」という。経済開発計画を樹立した人々は当時、経済企画院の職業公務員と韓国銀行調査部出身の経済専門家たち、大学の著名な経済学者たちだった。彼らにとって「技術」とは、労働力の一部という程度の認識しかなかったため、技術要因は、大した事でないと思い、計画の対象に入れなかった。その場の専門家たちの中、このような最高統治者の質問に自信を持って答えられる人はいなかったという。会場には、再び重い沈黙が流れた。このとき、宋正範次官が立ち上がった。「閣下、技術の需給に対しては、計画を別途に樹立して後に報告します」
朴議長はうなずいた。朴議長のこの日の質問は決定的な問題意識だった。経済企画院は4カ月間、経済開発を支える「第1次技術振興5カ年計画」を作り5月21日、最高会議に報告する。このブリーフィングに対する最高委員たちの反応はあまりにも良かった。委員たちは一様に「すばらしい計画」と絶賛した。(つづく) |