雄略天皇二年(458年)に、『天皇は、自分の心のおもむくままに行動するところがあり、誤って人を殺されることも多かった。天下の人々は、大変悪い天皇であると言った』とも記されています。
これらのことと、雄略天皇の「幼武」<未熟で腕力の強い者>という名前から、自己中心的で、攻撃性の強い人柄が浮かび上がってきます。
ところで、埼玉県行田市の稲荷山古墳と、熊本県の江田船山古墳から、「獲加多支鹵大王」の名が刻まれた鉄剣が出土しています。現在のところ、このワカタケル大王は、雄略天皇と倭王「武」に比定されています。稲荷山古墳出土の鉄剣に刻まれている銘文を要約すると、次のようになります。
『471年7月に、オワケの臣が記す。最初の祖先オオヒコの8代孫であるオワケの臣は、代々、杖刀人の首となり、今に至るまでお仕えしてきた。ワカタケル大王の寺が、斯鬼の宮にあった時、私は、大王が天下を治めるのを補佐した。そのことにより、大王の命令で、この百錬の鋭利な刀を作った。私のお仕えの詳細を記すなり』
この銘文から、次のようなことがわかります。
・オワケの臣の祖先は、「オオヒコ」とあるが、この人物は、崇神天皇の274年頃に、倭国の各地を教化するために派遣された四道将軍の一人で、北陸に遣わされた「大彦」と思われる。
・斯鬼の宮とは、奈良県磯城郡にあったと思われる。
・ワカタケル大王の寺が斯鬼の宮にあったことから、当時宮廷では、すでに仏教が信仰されていた。
一方、百済の蓋鹵王は百済本紀によると、在位は455~475年。毗有王の長子。名は「慶司」とあります。457年に「余慶」の名で中国の宋に朝貢し、「鎮東大将軍・百済王」に封じられました。しかし、不思議なことに、このことも含み、即位後468年までの13年間の事績は何も記されず、空白になっています。
472年に初めて北魏に朝貢し、その上表文で高句麗の討伐を請うていますが、あっさりと断られています。なぜなら、高句麗の長寿王は、北魏と親密な関係を築いていたと思われるからです。在位中に、何と41回も北魏に朝貢しているのですから。
475年9月、蓋鹵王は、高句麗の3万の兵で王都漢城を囲まれました。しかし、すでに戦う戦力も残っていませんでした。王は、わずか数十騎で門を出て逃げたのですが、高句麗に亡命していた百済人らによって捕らえられ、殺害されたのです。
それに先立ち、百済から救援の要請を受けた新羅は、兵を派遣しましたが、兵がまだ到着しないうちに百済王はすでに殺されていた、と新羅本紀に記されています。また、この高句麗の攻撃には、次のような先行する説話が伝えられています。
『高句麗の長寿王は、百済を探るために間諜(スパイ)を使うことにした。それに僧の道琳が応じて、罪を負って逃げて来た不肖の臣下と偽って百済に入った。百済王が囲碁が好きなことを知ると、巧妙に王に取り入り、王との囲碁の対局に召し入られることになった。やがて、王の上客になった…』 |