鈴木 惠子
『364年(新羅本紀)倭兵が大挙攻めて来た。不意打ちしたところ、倭人が大敗走した』
この倭国の攻撃は、奪われた伽耶の故地を取り戻すために企てられたようです。命じたのは、神功皇太后か武内宿禰と思われます。もしかしたら、日本書紀の《神功皇后の新羅征伐物語》は、この時のことがベースになっているのかもしれません。
『366年(新羅本紀)百済人が招待されて新羅に来た』
『366年(日本書紀)百済の近肖古王が、使者を倭国に遣わしたいので道を教えて欲しいと、卓淳国に来ていた斯摩宿禰に申し出る』
『367年(日本書紀)百済の近肖古王が久氐(くてい)らを遣わして朝貢して来た時、新羅の使者も一緒に来た』
『368年(新羅本紀)百済が良馬二匹を献上した』
この2年間の一連の出来事は、次のように推測しています。<新羅は、倭国からの攻撃に対処するために、百済に倭国との和解交渉を依頼した。百済の提案は、伽耶の故地の一部を倭国の直轄領とし、もとの国王にその土地を任せて統治させてはどうか。その地の主権は倭国にあるが、管理責任は百済が負う。百済の提案を受け入れた新羅は、三国間で協議するために百済と共に使者を倭国に派遣した。百済は協議成立のお礼として新羅に良馬を献上した>
『369年(日本書紀)新羅を打ち破った。伽耶の7ヶ国、比自火・喙国・卓淳・安羅・多羅・加羅・南加羅を平定した』
この記述は、伽耶の故地7ヶ国を倭国の直轄地にすることに新羅が同意したことを、比喩的に表現しているようです。その後、伽耶の7ヶ国は、任那羅(任那)=任せた国と呼ばれたのです。そして、南加羅の「南」に「ありしひの」と仮名を振っていることから、南加羅が神功皇后の出身地と思われます。そうであれば当時、これらの伽耶諸国は、斯盧国の領域だったことが確認できます。
『389年、皇太后崩御。100歳』
『390年、誉田別皇子、天皇に即位』
100歳で崩御したとされる神功皇太后は、長生きしたことは確かなようです。しかし、この年に崩御したのは武内宿禰であり、翌年に即位したのは武内宿禰の子、菟道稚郎子であろうと推察しています。皇太后の崩御の時期としては、次の記述がヒントになりそうです。
『神功皇后四十七年(367年)四月、百済王が朝貢した時、新羅の国の使者が一緒に来た。皇太后と太子の誉田別尊は大いに喜んで言われるのに、先王の望んでおられた国の人々が、今やって来られたか。生きているうちに間に合わなくて誠に残念であったと。群臣は、皆、涙を流さぬ人はなかった』
この記述中にある「先王」とは、仲哀天皇のことのように書いていますが、神功皇太后のことと思われます。346年に死去した仲哀天皇は、金氏によって356年に斯盧国が滅ぼされたことを知らないのですから、金王朝の使者を待ち望むということは有りえないのです。
伽耶の故地の回復と、金王朝の使者を待ち望んでいたのは神功皇太后に他なりません。 |