秘密の通貨改革の実務責任者となった千炳圭財務長官は、新しい紙幣の印刷場所を考えているうち、英国で研修中行ったことのあるトマス・デラルー(Thomas De La Rue)造幣会社を思い出した。植民地がたくさんあった英国には、いろんな国々の貨幣を印刷する業種が発達していた。宋堯讚内閣首班が駐韓英国大使を呼んだ。柳原植と千炳圭が同席した。堯讚が話した。
「貴国に貨幣製造を発注する考えだ。秘密保持は確かか。われわれの貨幣改革計画を本国政府に報告せねばならないのか」
「報告は必要だ。機密保持は責任を負う。印刷可能かどうかは、本国に照会して2日後に返事する」
2日後、英国大使は「作業は可能、秘密の保持も責任を取る」との回答してきた。
新しい貨幣を発注するためには券種別の印刷量を計算せねばならない。千長官は誰にも相談できなかったため、自ら韓国銀行の統計資料を持ってきて計算した。そして、西ドイツに借款の交渉に出発する丁來赫商工部長官に頼んで、トマス・デラルー社と印刷契約を事前にしておくようにした。千炳圭長官は、朴正煕議長がケネディ大統領に会いに行くとき一行に加わり、米国から英国に行くことにした。記者たちの追跡を振り切るためだった。記者たちの前で朴正煕議長は、あらかじめ決めた芝居をした。米国行きの飛行機の中で朴議長は記者たちに聞こえるように言った。
「おい、千長官、英国から招待を受けたね」
「はい、閣下。今回閣下の訪米に私が随行することを知って、英国の経済団体が私を招待しました。4~5日間、英国で視察することになっています」
朴正煕議長が米国に出発する前、柳原植は通貨改革について初めて金鍾泌情報部長に教えたという。ワシントンで朴議長一行と別れて、英国に到着した千長官は、トマス・テラルー社を訪ねた。千長官は、先に訪れた丁來赫長官とこの会社が、貨幣の印刷費を646万ドルと策定したことが分かった。1961年の韓国の輸出額は3800万ドルだった。
トマス・テラルー社がデザインした小額紙幣の大きさもあまりにも小さかった。郵便切手のようだった。ところで、この小額紙幣のサイズを大きくすると、印刷費がもっとかかる。高額紙幣の枚数を増やし、小額紙幣の印刷量を減らし、大きさを調整した。千長官はこのようにして印刷費を450万ドルに削った。このとき発注した紙幣は、最高額券が500ウォンで、その下に100ウォン、50ウォン、10ウォン、5ウォン、1ウォン札だった。偽造防止のため500ウォン札には金属線入の特製紙、100ウォン札以下は色絲入の特製紙を使用した。
革命政府は、産業資本を動員するための通貨改革を極秘裏に推進しながら、春川水力発電所の起工、大韓重石蒼鉛製錬工場の竣工(1961年9月23日)、工業標準化法の制定(同年9月30日)、電源開発5カ年計画(同年11月24日)などを推進した。そして、蔚山工業センターの建設計画も推進していた。丁來赫商工部長官は、初めから蔚山が工団建設の適地として浮上したと言った。
「鉄鋼、石炭、石油など重量物は、海で輸送せねばならず工業用水が必要です。蔚山は海と太和江に挟んで、植民地時代にすでに、ここへ精油工場を移転するなど、工団造成計画があった所です」
(つづく) |