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2019年09月11日 00:00
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大韓民国の建国史(166)通貨改革に韓国銀行の金正濂が参与した経緯

 千炳圭財務長官は帰国のあいさつに来た金正濂に「政府で一緒に仕事しよう」と言ったが、彼は二度と公職には就かないと頭から断った。千長官はどうしても金正濂を通貨改革に参加させたいのに、提案して断られれば機密だけが漏れ、無理矢理に引き込むわけにもいかず、悩んだ。千長官は柳原植准将を訪ね相談した。通貨改革を実務的に成功させ、革命政府のためには必ず必要な人材なのに、本人が固辞していると説明した。
柳原植は、はきはきと答えた。 「名前と住所を教えてください」数日後、柳原植は千長官に連絡した。
「金正濂氏を連れておいたから、会って見なさい」
金正濂は、中央情報部内の事務室にいた。柳原植は通貨改革については言わず、経済開発についての研究をするようにと言ったようだった。千炳圭長官は、人の問題は解決されたから、次は印刷所を決定するべきと考えたという(回顧録『天馬草原で遊ぶ』から)。
このことで二度と公職に就かないつもりだった金正濂の人生行路が変わる。彼は1969年から9年間、大統領秘書室長として朴正煕を補佐しながら、経済政策をはじめ、国政に大きな影響力を行使することになる。彼は千炳圭氏の回顧録『天馬、草原で遊ぶ』が88年に出るまで、自分がなぜ中央情報部に動員されて勤務することになったのかを知らなかったという。千炳圭氏の回顧録を読んでようやく自分が中央情報部に呼ばれた背景が分かったそうだ。
柳原植の指示を受けた情報部幹部の康誠元(後に共和党国会議員を務め)は、韓国銀行へ出勤するように3日間も通い、金正濂に「情報部に来て、私たちの仕事を助けて欲しい」と頼んだ。金正濂は韓国銀行から財務部理財局長に派遣されてから官界で苦労した記憶から冷たく断った。
4日目の日、韓国銀行総裁が呼んで、「中央情報部からあなたを指名して出向させるように指示が降りてきた」と言うのだった。
正式の人事命令に不服を申し出ることは、自ら退職を意味する。金正濂は気が進まなかったが、中央情報部の政策研究室に諮問委員として出勤した。行って見たら崔圭夏(後に大統領)、李鍾極、金成熺、金雲泰、朴觀淑、劉鎭舜など各界の専門家たちがいた。金鶴烈(後に経済企画院長)は、ここで仕事をしている間も、政府へ行ったという。金正濂は懸案の経済問題についての意見を書いて出しながら時間を過ごした。
間もなく千炳圭長官が金正濂を柳原植委員に連れて行って紹介した。柳原植は「金先生の話はたくさん聞きました。53年2月の緊急通貨金融措置を起案されたですね」としながらこう言った。
「通話改革の研究を頼みます。各国の通貨改革の実例、わが国が通貨改革の時の準備、通貨改革の具体的な内容、事後対策などに関連して研究して報告書を書いてください。通貨改革をするというわけではなく、ただ通貨改革について調査をすることだから余計な誤解を買わないために秘密が維持されねばなりません」
柳委員は秘密の作業に適した場所と言いがら、ソウル市庁の後のある建物の2階へ金正濂を連れて行った。女性の職員がいる付属室と、その隣によく整えられた執務室と、その後ろに壁全体が黒い絨毯のカーテンが張られた部屋があった。金正濂は一人でこの部屋を使用し、通貨改革に関する報告書を書いて報告した。柳原植はご苦労様と言いながら、「今、駐米大使館の経済参事官ポストが空席だが行かないか」と尋ねた。金正濂は即座で「いいですね」と答えた。
(つづく)

2019-09-11 3面
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