鈴木 惠子
卑弥呼と争った狗奴国の男王「卑弥弓呼」の名前については、現在の通説では「ひみここ」または「ひみくこ」などとされています。しかし、ここでは「卑弥弓呼素」と表記しているのにお気づきでしょうか。
卑弥弓呼という名は、魏志倭人伝に記されている『倭女王卑弥呼與狗奴国男王卑弥弓呼素不和』の部分を、<倭の女王・卑弥呼と狗奴国の男王・卑弥弓呼は、素から不和だった>と訳したことから、卑弥弓呼が定説になったようです。
しかし個人的な見解ですが、素の字は卑弥弓呼にかかり、卑弥弓呼素という名前であろうと解釈しています。意味は、<馬韓の卑弥国から来た、素は「弓」と呼ばれた人>です。
卑弥弓呼素は、卑弥呼と同様に、馬韓の卑弥国から来た人のようです。その卑弥弓呼素について詳細は不明とされ、書籍や研究書などを目にすることもほとんどないのが現状です。
実は、「きゅう」と呼ばれる人物を、魏書・高句麗伝に見出すことができます。その人物は、高句麗王「位宮」です。三国史記・高句麗本紀では、東川王「憂位居」(在位227~247)に当てはまると考えられます。
憂位居は、山上王・延優(在位197~227)の子として209年に生まれ、19歳で即位しています。父の山上王も位宮という同じ名を持っていますが、位宮とは、高句麗の太祖・宮(在位53~146)に似ていることから位宮と呼ばれたと伝えられています。その太祖は、生まれた時、すでに目を大きく見開いていたということです。延優や憂位居も目が大きく、太祖に似ていたのかもしれません。
高句麗本紀によると、憂位居は、234年に魏政府から国交を求められ、237年に魏が「景初」という年号に替えたことに対する祝賀使を派遣しました。翌年の238年には、魏の司馬懿による公孫淵の討伐に、千人の兵を出して魏軍を助けています。その後、憂位居がしばしば中国の領域に侵入したため、魏政府は高句麗を討伐し、憂位居は247年に死去したと記されています。
一方、魏書・高句麗伝には次のようにあります。
<246年8月に、幽州刺史・毌丘検と玄菟郡太守の王頎は高句麗の位宮を討伐したが、逃げた位宮を追って東沃沮の東部境界の日本海沿岸に行き着いた。王頎は、そこの長老に「海の東にも人が住んでいるか?」と聞いたところ、「海で魚を獲っていたら強い風に流され、10日間くらいで一つの島に着きました。その島に人間が住んでいましたが、言葉が通じませんでした」と答えた。その後、王頎は丸都城に至り、不耐城と彫字して帰還した>
この年は、246年10月のことであると、高句麗本紀に記されています。
位宮の足取りは、このように日本海沿岸でプッツリと途絶えています。位宮を殺害したという記述はどこにも見当たらないので、海を渡って日本列島に到着していた可能性を排除できません。もしそうであれば、魏志倭人伝にある、247年の卑弥呼と卑弥弓呼素の不和という記述は、倭国に入った位宮が狗奴国の王となり、卑弥弓呼素と呼ばれ、邪馬壹国の女王・卑弥呼と争いを繰り広げた、と推測できそうです。