国家戦略フォーラム研究員 李春根
米国が本当に帝国主義国家なら
ベトナムでは戦わなかった
米国が帝国主義的野心を持っており、韓国やベトナムがその対象だったという主張はとんでもない発想だ。米国が本当に帝国主義国家なら、資源が豊富で工業が発達し、大きな市場がある他地域を侵略したはずだった。そういう地域は世界のほかの所にたくさんある。しかも、韓国やベトナムへの米国の介入は、先制攻撃ではなく共産主義者の侵略に対する反応だった。共産主義の侵略がなかったら、米国の介入はなかった地域だった。
韓国軍が良民を虐殺したという主張も、論理的飛躍であるのは同じだ。ゲリラ戦は軍人が良民を装って戦う。軍人が良民の中に紛れ込んで敵を攻撃し、逃げるのがゲリラ戦争、またはテロ戦争の戦術だ。駐ベトナム韓国軍司令官を務めた蔡明新は、ベトナム戦争参戦の第一の課題は、「ベトコンと良民を分離する」という難しい任務だったと回顧する。良民の間に隠れているベトコンの行動は、北ベトナム労働党中央委員会の指令に基づいてのことだった。ベトコンは南ベトナムで自然に生まれたものではなく、北ベトナムの指令に従ってベトナムを赤化統一する道具として利用されたものだった。
ベトナム戦争があまりにも歪曲されている状況を放置するわけにはいかないと「書く途中に死ぬことがあっても、韓国軍のベトナム参戦が大韓民国の歴史において一点の恥もなかったという正当性と当為性を後世に伝える」という思いで、高齢を押してベトナム戦争回顧録を残した蔡明新は、ベトナム戦争で良民の犠牲もあったという事実を否定しない。
ベトナム戦争だけでなく現代のあらゆる戦争では、軍人よりも良民が多くの被害を被る。現代国家の戦争は、王たちの戦いではなく、国民の戦いであり、国家全体が動員される総力戦であるからだ。敵の軍事力だけでなく、敵の産業施設も攻撃の標的になる。ところが、ベトナム戦争が特に難しかったのは、蔡明新の回顧のように「ベトコンはどこからでも現れる一方、探しに出ると消える。ベトナム人の中には必ずベトコンがまざっていると見ていい。特に、地方のベトコンには子どもも少女も老人もいる」という点だ。良民と軍人がまったく区別できない戦場こそベトナムだったのだ。
韓国軍が移動するのを見て、「タイハン(韓国)! タイハン!」と手を振った村の人々が、韓国軍の行列が通りすぎた頃、背後から銃撃を加えることもあった。韓国軍はすぐ振り向いて応射する。誰が撃ったのかと悠長に聞いていては全滅する状況だ。韓国軍は容赦なく応射し、田んぼで働いていた多くのベトナムの女性や老人も殺したはずだ。こういう戦闘は例外なく、韓国の参戦を批判する人々によって、韓国軍の良民虐殺として記録されるのだ。筆者が将校として勤務したとき、ベトナム戦争に参戦した先輩は、このような状況を例に挙げ「そういう状況で李中尉が小隊長だったらどうするか」と聞いてきたこともあった。
朴正熙の苦悩に満ちた決断
韓国がベトナムに派兵した1960年代半ばの安保状況が、今日と最も違った点は、北韓軍の能力が韓国軍を完全に圧倒する水準だったということだ。韓国は当時、国防に投資する経済力などほとんどない状態で、米国の援助で国防予算を編成せねばならない状況だった。米国の援助がないと、国家財政が編成できない国だった。60年代初め、韓国政府予算の52%が米国の援助でまかなわれており、国防予算の72・4%が米国の援助だったという事実は、在韓米軍の存在と米国の軍事援助が、韓国の防衛のほぼすべてだったも同然であったことを物語っている。
米国がベトナム戦争という泥沼に足を踏み入れてからベトナムに派兵する兵力が足りなくなる状況で、韓国政府は駐韓米軍がベトナムへ回されるのではないかと不安を感じざるをえなかった。当時、国家再建最高会議議長だった朴正熙は1961年11月、ケネディとの会談で、ベトナムに韓国軍の派遣を先に提案したことがあったのはすでに触れた。朴正熙のベトナム派兵提案は、韓国軍が自国防衛もできない状況だったのになぜしたのかと批判する前に、米軍が1人でも韓国から抜けてはならないということを、朴正熙があらかじめ婉曲に米国に伝えたものだと解釈するのが妥当だ。(つづく)