大規模なイベントを行う際は、有力なスポンサーの存在は不可欠だ。ワッソは大阪興銀に支えられ、開催されてきた。今回は興銀が担ってきた役割について紹介する。(李民晧ワッソ取材チーム長)
ストリートパレードを含め、ワッソに参加するスタッフは少なく見積もっても4000人を超えていた。これだけ多くの人々が古の韓半島の衣装を身につけ、舟だんじりとカマに乗って移動し、踊りと歌、演奏を披露する。一連の行事自体に大変な人員と予算を要する。特に、当時のままの姿を再現しようとしたことは、無謀な挑戦に他ならなかった。
| ワッソ祭りのストリートパレードに参加する舟だんじり | 「ワッソの準備中、周囲からは猛反対を受けました。(88ソウル五輪開会式総企画者である)韓国のイ・オリョン文化部長官も、このイベントは絶対に不可能だから早々に諦めるべきだと言いました。そうした声が耳に入ったのか、父・李熙健大阪興銀理事長からも反対されました。ワッソは、我を押し通した結果により幕を開けることができたのです。初回開催時、東京から訪れたイ・ウォンギョン駐日韓国大使が現場を見て『これは本当に素晴らしい』と繰り返し感嘆していました。」
今年7月に行ったインタビューで、興銀の李勝載副理事長は当時の状況を鮮明に回顧した。数千人のスタッフと数十万人の観覧客が訪れたワッソは、大阪の3大祭りにまで発展していった。在日同胞に加え、日本人もともに広く集う巨大な祭りの場を作った。そのため、ワッソ開催には有力なスポンサーの存在が不可欠だった。そのスポンサーは「大阪興銀」だった。
大阪興銀はなぜこうした文化事業を行ったのか。興銀の足跡を通し、興銀が担ってきた役割を探ってみたい。
1955年に設立された大阪興銀は、鶴橋市場の在日同胞商人と大阪の商工人らを出資者として募り、スタートした。営業基盤は「朝鮮市場」と称された鶴橋市場と、日本最大のコリアンタウンである生野地域だった。設立者の李熙健氏は太平洋戦争終結直後、闇市場だった時代から鶴橋国際商店街の繁栄会長を担うなど、リーダーシップを発揮してきた。
JR近鉄鶴橋駅を降りると、現在もキムチを売る店や韓服店、ホルモン焼き屋などが建ち並ぶ。その匂いだけでも韓国人が暮らしていることを察することができる。
大阪興銀は、同地域の在日韓国人社会を支えてきた組織だった。まず金融面では、68年に韓国系金融機関の中で最初に預金高100億円を達成した。さらに91年には「魔の壁」といわれる預金高1兆円も突破した。日本国内の信用組合の中でも圧倒的なトップだった。93年7月1日には、関西地域の韓国系信用組合5行を合併し、関西興銀を誕生させた。これにより、営業地域と事業がさらに拡大した。
「興銀の発展はワッソ関係者にも大きな励みとなりました。毎年の出し物も充実していき、在日韓国人たちのワッソに寄せる期待感も高まっていきました。やがて華僑社会からのオファーも聞かれ始めました。中国の隋・唐の使節も登場し、ベトナムとインドの登場人物も追加される流れが生じました。韓日親善から、東アジアへと視野が広がったのです」(今年7月、猪熊兼勝大阪ワッソ文化交流会理事長)。
日本の外国系市中銀行へと発展させるという夢とともに誕生した関西興銀は、だが予想だにしない事態に直面する。90年代末、日本のバブル崩壊によって大量の不良債権が発生。これにより、日本当局が金融機関を精査する過程で多くの銀行が整理対象に上った。
関西興銀もまた、これに準ずる金融機関とみなされた。2000年12月、日本当局の金融再生委員会の決定は、関西興銀を「金融再生法8条による職権に基づき破綻処理」するというものだった。
「複雑な思いではありますが、歴史的に見て民族差別とも捉えることができました。興銀は小売りの同胞商人や零細企業の顧客が多かったため、不良債権という言葉は冷酷で、その歴史的背景も考慮されませんでした。経済的な論理では正論かもしれませんが、近代の韓日史として鑑みると、弱者である在日韓国人に対する民族的な施策とすら感じました。興銀の解体はいや応なくワッソの消滅を意味しました」(猪熊理事長)。
「興銀はただの金融機関ではありませんでした。関西地域に住む在日同胞にとっての中心で、人と人をつなぐネットワークでした。自然に、韓半島と日本を結ぶエネルギーにもなっていたワッソが求心点を失ってしまったのです」(李勝載副理事長)。(つづく) |