洪熒・本紙論説主幹
南派工作員たちが受けた任務の第一は、南韓社会の内部に労働党の地下組織網を構築することで、第二は政界とマスコミ界などの要人たちと広く接触して平和統一の当為を宣伝することだった。このような活動は、特定の政党や社会団体に限定し、集中するのではなく、すべての政党と言論媒体、学界、塾など広範な分野にかけて展開された。その方法は自分の身分を露出させず、平和統一論の当為を主張し、波及させることだった。北側のこのような積極的な平和攻勢は、1956年4月24日の労働党第3回党大会を基点として活発になった。
このように、1950年代半ば以降、北側の対南工作は、組織攻勢と平和統一、政治攻勢を本格的に推進するものだった。南韓で革新勢力らが平和統一を主張するのを見て、平和統一攻勢をさらに強化したのだ。
北側の平和統一攻勢において注目されるのが、1956年6月2日、南日外相が声明を通して、外国軍の撤退と関係国の国際会議招集だった。そして6月29日、戦争中、拉致された著名人士たちを動員して在北平和統一促進協議会(在北平統)を結成した。この在北平統に動員された著名人たちが安在鴻、趙素昂、呉夏英などだった。北側が全韓半島次元での唯一の統一運動戦線体と主張する「祖国統一民主主義戦線」と別途に「在北平統」を結成させた理由は、南韓での平和統一運動の登場に合わせて統一戦線を拡大するための戦術だった。
ここで注目すべきことが、民族統一戦線体である「救国闘争同盟」の結成だ。朝鮮労働党は戦争中だった52年3月、新義州で会議を招集して、南韓の大衆包摂に対する新しい方法を樹立し、闘争することを討議したが、このとき、決定されたのが救国闘争同盟の結成だった。救国闘争同盟の主な包摂対象は、南韓に残存している勤労人民党、朝鮮人民共和党、勤労大衆党、韓国独立党などの潜在党員たちと設定された。彼らを基幹として労働党の直接指導の下、「祖国統一民主主義戦線」の傘下に、救国闘同盟を組織するよう決定した。
しかし、北側の救国闘争同盟結成の試みは大きな成果を出せなかったと見られる。戦争を通じて生まれた南北の対立が、北側の対南工作を難しくしたからだ。そこで作ったのが在北平統だ。在北平統は、朝鮮労働党や祖国戦線の傘下組織ではなく、独自の組織とすることに決定した。
以降、続いてきた北韓側の平和統一攻勢は4・19の後さらに強化され、南韓の一部の政治勢力が呼応したが、曺奉岩を中心とした進歩党が代表的な例だった。
北側は、1970年11月に開催された第5回党大会で、進歩党が北側の平和統一攻勢に積極的に呼応した政党だったことを、次のように言及した。
「進歩党は反帝・反ファッショの平和統一を基本とする闘争綱領を出し、各界各層の愛国的民主主義の力量を組織し、米帝とその手先らの民族分裂政策とファッショ化政策に反対する積極的な闘争を展開した。…特にこの党が提起した平和統一綱領は当時、南朝鮮社会で大きな支持を受けるようになった」
北韓側はまた、この時期から平和統一攻勢とともに、米軍撤収のための反米宣伝を強化した。中共軍が北韓から1958年までに撤退したことを契機に、対南戦略において反米を主な闘争方向として設定、今まで反米宣伝攻勢を最も重要な対南戦略の目標としている。(つづく) |