洪熒・本紙論説委員
韓国の左派学者たちが作った「韓国歴史研究会」の4月民衆抗争研究班が発行した『4・19と南北関係』という本は4・19の意義を詳細に記述している。
「4月民衆抗争は5・16軍事クーデターによって挫折されたが、民衆の力で政権を倒した最初の勝利の記録だった。また、4月民衆抗争時期に表出された自主・民主・統一志向はその後、民族民主運動に継承され、韓国の民主化運動の源流となった」
特に、この本の共著者の一人である鄭昌鉉は『4月民衆抗争前後の北韓の統一路線と統一政策』の章で、1950年代後半の北韓の平和統一論について、労働党の元高位幹部の証言などに基づき、次のように主張した。鄭昌鉉は、従北勢力の巣窟として知られた民族21の編集者などを務めた。
「北韓の平和統一論は、単に戦後復旧のための一つの方案としてのみ提起されたものではなかった。(中略)北韓は民主基地路線に立脚して社会主義建設を推進する一方、南韓の革命力量を強化するための準備作業も同時に推進したためだった。つまり休戦後、北韓は一方では、平和統一を提案しながら、もう一方では「南朝鮮革命」のための準備をする両面戦術を駆使したのだ。また、北韓の経済力が南韓の経済力を圧倒していた1950年代の後半、北韓は平和統一攻勢を一層強化した」
鄭昌鉉は金日成の1954年11月3日の発言を紹介している。
「一方では、南朝鮮の人民に根強くわが党の影響を与えて、彼らが米帝や李承晩逆徒に反対して決起するようにせねばならず、他方では、北半部の民主基地をさらに鉄壁のように強化せねばならない」
金日成は1955年の4月1日、労働党中央委員会の全員会議で、米国と李承晩政権が統一独立国家建設の基本的な障碍となると強調し、南韓革命の性格を「反帝反封建的民主主義革命」と規定した。金日成は、南韓革命の動力を、労働者と農民、封建勢力に反対する小資産階級や一部の民族資本家と規定し、南韓の革命力量の強化のため党を再建し、労働運動を復活させねばならないと強調した。
停戦協定締結直後、金日成が南労党の核心指導部を完全に粛清したことで、対南工作は朴金喆が中心となった北労党系が担当することになった。主導勢力の交替で、対南工作の方向も変わった。北側は南側で活動し続けた南労党員出身を通じて党組織を修復し、頼母子、懇親会、登山会、読書会など小グループ活動を通して大衆性を確保していくよう決定した。この過程で進歩党を中心に新たに登場していた革新勢力を注目した。
北労党系をもって再編された労働党対南部門は対南組織の細胞を作る大々的な組織攻勢を展開することになる。この組織攻勢は、工作員を派遣して非合法組織を構築することを意味する。1956年の春以降は、上層統一戦線事業を任務とする工作員を多く南派することになる。
北側は、主に与野党や第3政治勢力とゆかりのある工作員たちを送り、特に解放直後、南北協商派だった人士らとの接触に注力した。地下党組織事業も続けられた。
米8軍防諜隊(CIC)が逮捕されたスパイたちを調査した報告書は、当時、北韓の対南工作に特徴か見られると評価した。(1)南派工作員が量的に増え、質的にも教育を受けた高位層の人々が多く、(2)活動期間が長期化し、(3)工作金も増える趨勢と言った。この変化は、北側の対南工作が情報収集中心ではなく、政治工作を重視していることを示している。
(つづく) |