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2018年02月21日 00:00
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大韓民国の建国史(101)執権自由党政権の堕落と自滅、建国勢力の交代

洪熒・本紙論説委員

 米国の世界戦略の変化によって韓国への援助も減ってきた。当然、李承晩政府の戦後復興のための投資資金も甚大な影響を受けた。韓国の政治は、老衰した建国大統領のリーダーシップの弱化で1958年の第4代総選挙を経ながら危機的状況に陥った。
1960年3月の第4代大統領と副大統領選挙を前に、与党の自由党は危機を迎えた。李承晩大統領はカリスマが衰えたものの、国民の支持が多いため当選には問題がなかった。しかも、野党・民主党の大統領候補だった趙炳玉氏が米国で病気治療中、選挙の一カ月前に死亡した。李承晩大統領は単独候補として当選が確定した。
問題は、副大統領の選挙だった。自由党の副大統領候補・李起鵬は大衆的政治家でなかった。彼が民主党副大統領候補の張勉に勝利する可能性はほとんどなかった。李起鵬は解放後、李承晩の秘書となり政府樹立後、大統領の秘書として政治的基盤を固めた。李起鵬は1949年にソウル特別市長、6・25戦争中は、「国民防衛軍事件」が起きて国防長官に任命されて事件を処理した。1951年12月、李大統領の指示で自由党の結党過程で活躍した。李起鵬は大韓オリンピック委員長や国際オリンピック委員など、出世街道を突っ走った。自由党中央委議長として1954年5月の総選挙を指揮し大勝した後、国会議長となった。
彼は1956年、自由党候補として副大統領に出馬したが張勉に敗れた。大衆性がなかった彼が副大統領候補となったのは李承晩の信任があったためだった。彼は国会議員になるためにも、有力な野党政治家が候補として登録できないようにするか、有力な自由党候補を排除し自分が候補になるなどの手法で当選した。
李起鵬は副大統領選挙で敗れた後も、国会議長として自由党が多数を占めていた国会をコントロールし、自由党の副総裁として自由党の地方組織も掌握した。彼は李大統領が死亡したときその地位を承継する唯一の後継者だった。
当時、李承晩政権は李起鵬を頂点とする寡頭支配構造で運営されていた。すでに85歳の李大統領は週1~2回の国務会議を主管するだけ、国政は李起鵬の指揮の下、数人の長官たちが協議し決定していた。
李起鵬が内閣の決定を李大統領に報告し裁可を受けた。地方の行政体制も同じだった。内務部長官を中心とした少数の権力集団は、地方組織を統制し公務員と警察、有権者を選挙に動員できた。
このような状況で、李起鵬の自由党は1960年3月の副大統領選挙を、政府と党体制を動員する不正選挙を画策した。不正選挙を企画して実行したのは内務長官の崔仁圭だった。だが、不正選挙の陰謀は、選挙の前から多くの副作用を生んでいた。
李起鵬らは野党の選挙遊説に学生たちが行けないように、日曜日にも登校するように強いた。民心はすでに離反していた。2月28日、大邱の慶北高校の学生たちが抗議デモを行った。全国各地で不正選挙を糾弾する高校生たちのデモが続いた。
3月15日、投票日に全国的に不正選挙が公然と行われた。農村では3人ずつ公開投票が強要された。軍隊では李承晩に投票した数が有権者の120%の部隊もあった。候補の得票率は操作された。警察は全国の開票所に李承晩と李起鵬の得票率が80%と70%を超えないよう指示した。最終得票率は、李承晩89%、李起鵬79%だった。誰も納得できない結果に国民の怒りが爆発した。(つづく)

2018-02-21 3面
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