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2018年02月15日 00:00
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大韓民国の建国史(100)李承晩の権威主義的政治体制とその陰

 休戦後わずか7年間、政治的には混乱したが、李承晩政府は経済、社会、文化の面で多くの実績をあげた。1953年から60年の間、韓国の経済成長率は年平均4・9%で、同時期の全世界の後進国の年平均成長率4・4%を上回った。1953年から60年の間の工業成長率は10%を上回った。
1950年代の韓国の農村人口は全人口の60%を占めたが、国民総生産の中で農業の割合は35%に過ぎなかった。経済成長は工業部門が主導した。韓国は依然として貧しかった。農村の過剰人口を吸収する国内市場はなかった。
その内、米国の世界政策が変わった。米国は、後進国も援助を受けるばかりでなく、自らの責任と計画をもって経済開発を推進するのが望ましく、無償援助より有償借款が効率的だと考えた。
米国の対韓援助は1957年3億8289万ドルで頂点に達し、59年は2億2200万ドルに減少した。そのため主要な投資資金を援助に依存した韓国経済に少なからぬ衝撃が走った。57年8・8%だった経済成長率は、59年は4・4%、60年は2・3%に落ちた。李承晩政府は借款の導入を前提とした長期開発計画を策定した。59年12月、経済開発3カ年計画が発表された。
一方、政治は58年の第4代国会議員選挙後、混乱に陥った。李承晩大統領の権威主義体制を困難に陥れた最大の不正は、6・25戦争中発生した国民防衛軍事件だ。国会は50年11月、軍警、公務員、学生を除く、17~40歳の男性をもって国民防衛軍を編制する法律を通した。12月、約50万人の国民防衛軍がソウルで徴集されて南へ移動中、約9万人が行軍中餓死か凍死した。補給品の相当量を国民防衛軍の指揮部が着服したためだった。
この酷い事件は、国民防衛軍の指揮部が李承晩の信任を受けていた大韓青年団の幹部たちで構成されたため起きたと言われた。大統領の腹心の国防長官が事件の原因と責任を糊塗しようとした。世論が沸くや李承晩大統領は、国民防衛軍の指揮部5人を公開処刑した。韓半島の歴史上初めての憲法や選挙制度をめぐって、大統領中心制を選好する李承晩大統領と、内閣責任制を選好する野党勢力の対立と葛藤は戦争中も続いた。結局、建国以来、二回の改憲を経て、54年11月、李承晩大統領が追求した権威主義的政治体制が出来上がった。
李承晩の権威主義体制の土台は、自由民主的民族主義で、反共主義、北進統一、米国との同盟、日本との対立を通じて、大韓民国の国家アイデンティティを形成した。それで、大韓民国はほとんどの新生国で見られる政治理念の混乱、朋党政治、対外関係の混乱を避けることができた。
李承晩は確固たる反共主義を目指した。彼にとっては共産主義と協商することは愚かなことで、左右合作も絶対やってはならないことだった。彼の反共主義は北進統一論につながる。6・25戦争が勃発するや、李承晩は戦争を北進統一の機会としようとした。統一するまで決して止まってはならない戦争だった。それは国民にとって非常に単純で強烈な論理だった。
李承晩時代が幕を下ろした後も、この韓国民の国民統合の理念の基盤はそのまま存続した。4・19の後、左右合作勢力が登場し北側との協商を模索したが、その反動で5・16軍事革命が起こった。国民の多数が5・16を受容れたのは、左右合作勢力によって国家のアイデンティティが揺らぐことを警戒したためだった。(つづく)

2018-02-15 3面
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