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2017年11月15日 00:00
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大韓民国の建国史(91) 戦費調達と国家の百年の計に苦心した李承晩 

洪熒 本紙論説主幹

 李承晩大統領は、後方地域の共産ゲリラ討伐と莫大な戦費の調達、つまり国連軍への貸付金問題で苦労していた。解放後、韓国銀行が中央銀行として正式業務を開始したのは、6・25南侵2週間前の6月12日だった。韓国銀行は、北傀軍によってソウルが陥落する直前の6月27日、金塊1・07トンと銀塊2・513トンを軍の支援を得て鎮海に移送することに成功した。6・25戦争中、武器供給など直接軍事費は、国連軍の負担だったが、間接的な軍事費は韓国政府の負担だった。1950年7月26日、大田で「国連軍経費に関する協定」が締結されて、国連軍側の要求があれば、韓国政府は無条件、韓貨で提供せねばならなかった。
1951年から52年には、政府の通貨量増加の70%が、国連軍への貸付金だった。韓国銀行が疎開できなかった未発券銀行券などを敵(北側)が利用した通貨戦争に加えて、歳入がほとんどないため、韓国銀行の発券は戦時インフレをもたらした。
李大統領は低為替レート政策を固守した。しかし、為替レートが上がるや、国連軍への貸付金の返済促進と為替レートを維持するため、政府は1953年2月15日、大統領緊急命令第13号で、午前6時を期して貨幣価値を100分の1に切り下げる通貨改革を断行した。ドル為替レートは、60対1にした。
李承晩大統領は戦争中、週1度は前方部隊を訪ねる一方、国家の百年の計のための長期戦略とそれに対する投資に疎かにしなかった。韓国がサンフランシスコ講和条約への参加ができなくなるや、同講和条約発効に先立ち、1952年1月18日、大統領命令で「大韓民国隣接海洋の主権に対する大統領の宣言」を公表した。戦時中の教育にも心血を注ぎ、国家の干城を養成するため、4年制の陸軍士官学校も設立(1952年1月20日開校)した。
米国と毛沢東の消耗戦を強いたスターリンが1953年3月6日に死んだ。ソ連指導部は、後継者が決定されていない状況で、急いで韓国戦争を休戦する方に方向を転換し、金日成と毛沢東に通知した。金日成は3月29日の朝、ソ連のクズネツォフ特使からこの新しい方針を聞いて興奮した。クズネツォフがモスクワへ報告した電文。
「私たちの説明を聞いて、金日成は非常に興奮した。彼は、良いニュースを聞いて非常に嬉しいとしながら、この文書をもっと研究した後、もう一度会う機会をくれるのかと言った。この日の2回目の会談で、金日成は「ソ連の朝鮮問題に関する提案に完全に同意する。これ以上戦争を長引くのは中華人民共和国と朝鮮民主主義人民共和国の利益にも、民主主義陣営すべての利益にも役立たない」と述べた。
スターリンの命令は「私の法」と言いながらスターリンの犬のように盲従してきた金日成が、自分が起こした戦争を終わらせられず引き摺られていく間、李承晩大統領は休戦しようとする米国の胸ぐらをつかんですさまじい自主外交を展開した。彼は休戦に反対して単独でも北進統一をすると、国連軍が管轄していた反共捕虜を国軍が釈放し、米国を脅かすた。
米国が李承晩の要求を受け入れて、1953年7月27日の午前10時に休戦協定が調印され、この日の22時を期して、敵対行為が止まり休戦が成立した。38度線の代わりに、臨津江河口-板門店-鉄原-巨津北方を結ぶ軍事分界線に沿って南北に幅4キロの非武装地帯が設置された。(つづく)

2017-11-15 3面
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