洪熒・本紙論説主幹
米国は早期の休戦を望んだが、スターリンは戦争継続を目論んだ。韓半島を侵略した中共軍がソ連指導部の役に立ったのは、中共軍の服を着たソ連の軍事専門家が、米国の諜報網に気付かれず、韓半島の奥深く潜入して中共軍の捕虜になった国連軍の将兵を尋問できたことだった。そう、『スターリンと金日成』の著者ガブリル・コロトコフは記録している。
中共軍の服を着たソ連軍の韓国戦争参戦証言は、アレッサンドロ・オルロフ退役陸軍大佐の次のような証言でも確認される。
「中国義勇軍の服装をした我々は、鴨緑江を渡って北朝鮮に入ったが、我々の外貌だけを見ても、ソ連軍将校であることを区別できなかった。それはボルシェビキの迫害から逃れて、ロシアから脱出した将校と将軍たちが満州に多かったからだ。つまり、アジア系の顔でない人々も中国軍部隊に服務できたということだ…。
朝鮮の被後見人たちは我々を信じなかった。彼らは親しい笑顔で、私たちのアドバイスを聞き、別人と『相談に』どこかに出てまた笑顔で戻っては、『これは私たちには合いません。私たちなりの事情があるから』と言うのだった。北朝鮮の指導部が、私たちの勧告を無視して多くの人命の損失をもたらしたことも珍しくなかった。
私は金日成がソ連専門家たちの勧告を正確に履行したら、1950年6月内に、韓国全地域を押さえられたと確信している」
毛沢東は1951年の春季攻勢を通じて、中共の戦争遂行能力が限界に達したと感じた。毛沢東はこのあたりで戦争を終わらせたかった。毛沢東は51年6月5日、スターリンに電文を送り、戦争遂行の難しさを強調した。しかし、スターリンは戦争を長引かせて中共と米国の両方が血まみれになり、両方の力が消尽することを望んだ。スターリンは、本心を隠して毛沢東に次のように長期戦をさりげなく勧めつつ、大砲や対戦車兵器の支援を約束する。
「私もあなたと同じく、韓半島の戦争を加速させる必要はないと思う。長期戦は中国軍に現代戦を習得させ、米国のトルーマン体制を揺さぶり、連合軍の軍事的権威を失墜させられる」
スターリンは、この手紙で中共軍の右傾化現象を憂慮し、中共軍と北韓軍の士気を上げねばならないと強調した。ところが、毛沢東が送った高崗との会談で、スターリンは休戦問題に合意しながらも「休戦を急ぐ必要はない」と主張した。むしろ持久戦に入ったため、早急に行動してはならず、戦線の状況がどうであれ、戦争は継続せねばならないと主張した。スターリンは金日成と高崗が38度線を境に休戦する問題について言及するや、こう言った。
「中国が本当によく戦っているのに、なぜ休戦しようとするのか。戦い続けるのを恐れるのは米国であって我々ではない。一人の米軍でももっと殺し、その棺を米国に送れば、米国内ではこの戦争に反対する勢力の圧力がさらに強まり、ついに停戦を提案する側は米国であろう」
限界に達した金日成も困り果てた。農村や工場の全労働力を徴集して40万の人民軍を再編成したが、戦闘力は取るに足りなかった。農村には高齢者、婦女子と子どもだけが残った。越南者の家族や北進した国連軍の協力者の家族には、首に「表札」(家の外に出るなという表示)をかけて、余計な外出を控えさせた。深刻な食糧難による飢餓状態で発疹チフスなど伝染病が蔓延し、多くの人々が死んだ。(つづく)