捕虜問題に対するトルーマンの苦悩を、彼の自叙伝を通じて見てみよう。
「韓国戦争の休戦協商の中で最も頭の痛かった案件は、捕虜の送還問題だった。われわれは、米軍捕虜を取り戻すことで心配が多かった。共産主義者たちが連れて行った米軍捕虜が非人間的な扱いを受けているという証拠と報道は多かった。共産主義者たちは赤十字社の現地視察を拒否し、共産側が出した捕虜名簿は、実際の人員の6分の1にすぎなかった。
1952年1月1日、われわれが『帰還を望む捕虜だけを交換せねばならない』と提案したことで、最も深刻な議論が始まった。私はこの問題では、絶対に譲歩できないことを強調した。
共産主義は、人間の尊厳や自由をまったく考慮しない制度で、したがって、まともな政府なら、自由に生きたいという捕虜を無理に共産主義制度の下へ帰すわけにはいかないのだ。われわれの側に立って自由のために戦った韓国人を放棄することはできないと主張したのと同じ脈絡で、私は戦争捕虜を彼らの意思に反して、共産党の支配体制へ帰す解決策を拒否した。私が1952年5月7日の演説で、私の心中にあった考えを正確に表現した句が一つあった。
『人間を、虐殺されるか奴隷になるよう引き渡す代価で休戦を買うことは決してない』
私は、この問題は取引の対象でないと考えた」
トルーマンはこの演説で、「捕虜たちの自由意思を無視した強制送還は、韓国戦争に参戦したわれわれの行動を支える道徳性の根本と、人道主義の原則と矛盾するものだ。われわれの手で捕虜たちを強制的に帰せば、(彼らに)悲惨な流血事態をもたらし、米国と国連に永遠の不名誉となる。共産主義者たちは捕虜を強制的に送還されることを要求することで、世界の前で、彼らはどのような体制を運営しているかを見事に示している」と強調した。
米国の若者らを「見知らぬ、見たこともない人々を救うため」韓国戦争に送ったトルーマンは、任期末に勝利も敗北もない状態で、休戦協商が延々と続いたため、支持率が20%台に落ちる。歴代最低の支持率だった。普通の大統領なら「全捕虜の相互交換」で自国の捕虜を急いで帰還させたはずだが、トルーマンは反共捕虜を帰さない原則を固守した。反共捕虜の多くは北韓軍捕虜だった。外国人の人権のため(実際には人道的原則のため)自国民(つまり米軍捕虜)を犠牲にしたわけだ。
巨済島捕虜収容所では、反共捕虜と共産捕虜の間で殺戮が絶えず、捕虜収容所所長の米軍将軍を共産捕虜が拉致する事件も起きた。それでもトルーマンは原則を曲げなかった。
捕虜送還問題で協商が難航する中、高地戦が2年も続き、双方の捕虜より多い数十万人が戦死した。国連軍側が捕虜の自由送還原則を共産軍側に提案したのは、52年1月2日だった。リッジウェイ国連軍司令官は同年4月15日、米合同参謀に17万人の共産軍捕虜(民間人を含む)のうち、7万人に帰還意思があると報告した。国連軍側は彼らを送還する意思があると、英印の外交ルートで中国側に通告し、後に修正案まで提案したが、周恩来外相は拒否した。
リッジウェイがアイゼンハワーの後任として、NATO司令官になり、マーク・クラーク将軍が同年5月12日、国連軍司令官として赴任した。国連軍側は7月までに、約1万人の民間人反共捕虜を一方的に釈放した。(つづく) |