北との繋がり断つ分岐点 1・21青瓦台襲撃
1960年代の統一朝鮮新聞(統一日報の前身)内部は、理念的に多様な面々が揃っていた。組織内には自由民主主義者と社会主義者が混在しており、事件や案件についての議論は活発に行われた。新聞が作った統一運動組織「韓民自統」(韓国・民族自主統一同盟日本本部)や「韓民自青」(韓国・民族自主統一青年同盟)も同様であった。
当時の韓民自青の指導部は、黄迎萬(民団中央議長・故人)、尹隆道(青年会中央初代会長)、金総領(統一日報編集局長・故人)などだった。現民団中央本部の呉公太団長や林三鎬副団長、民団東京本部の金秀吉団長なども韓民自青の盟員だった。
韓民自青は、韓国の立場に立った平和的統一を促進する運動を大衆的に展開するため、連日の訪問活動や定期的な勉強会を行った。組織は厳しい規律のもとに運営され、上下関係も明確だった。
統一運動の三原則(平和・自主・民主)を明らかにするとともに、盟員の基本姿勢を「率先就難」「一貫奮闘」「責任完遂」とした。月に数回は李栄根社長などから講義を受けたという。当時のメンバーは、互いを同志と呼びあい、強い結束力でまとまっていた。
しかし、新聞が二つに分かれる端緒となった大事件が韓半島で起きる。1968年に発生した1・21事態である。
金日成はその年の1月21日、人民軍の特殊部隊「124部隊」に所属するゲリラ31人をソウルに浸透させた。青瓦台を襲撃し、政府の要員を暗殺しようとするテロであった。
韓国軍の服で偽装したゲリラたちは、大統領官邸まで500メートルの距離まで潜入したが、警察の検問で計画が発覚し、暗殺は未遂に終わった。ゲリラは韓国軍警との交戦の末、27人が射殺され、3人が逃亡、1人が拘束された。唯一の生存ゲリラ金新朝は投降後、「朴正熙の首を獲りにきた」と話し、大きな社会的波紋を起こした。
北韓政権が犯した1・21事態は、在日同胞の統一運動家たちにとって最大の論争テーマとなった。激しい議論の末、統一朝鮮新聞は、「実践的統一運動の課題」というタイトルの連載(全25回)を発表し、1・21青瓦台襲撃未遂事件は、金日成政権が犯した明白な過ちであると批判した。
ゲリラ派兵は武力侵攻行為であり、金日成が唱えた「祖国の平和的統一論」とは相反する矛盾であり、民族分裂を招く極端な冒険主義と定義した。「実践的統一運動の課題」は、金日成の平和統一論が欺瞞であるとの根拠を次のように説明した。
「韓国で内部から革命を起こすには、北朝鮮の人的・物的支援が裏付けとならなければ不可能だ。そうなれば6・25韓国動乱のような悲劇を避ける道理はない。必然的に戦争を伴う民族分裂劇が起こるのだ。これこそ平和を装った民族欺瞞劇でなくして何であろう」
統一朝鮮新聞内部には、この論理に納得できない者もいた。「金日成の善意、大義を見ていない」と考えた人たちであった。この時、元心昌、李栄根に反旗を翻した金重泰、朴徳萬、趙范植、尹秀吉などは、組織から脱退して1968年3月11日『民族統一新聞』を創刊した。彼らは社会主義路線に追従していた。
統一朝鮮新聞は、朝鮮総連に向けても鋭い批判をためらわなかった。新聞紙面を介して、または人づてで、朝鮮総連に「指導部は平壌の誤りに対して是正を訴えよ」と呼びかけたが、拒否されたと伝えられている。新聞は、朝鮮総連が少数の幹部に権力が集中し、独善的になっていると批判した。
このころ北韓では、金日成の後継をめぐる内部の権力争いが熾烈に展開されていた。徐々に金日成の息子、金正日が後継を掌握していく過程で、初期の北韓の権力軸が一つ二つと粛清されていった。
この時、新聞の対北情報源であり、北韓とのパイプ役だった朝鮮労働党書記の李孝淳を筆頭とした甲山派も粛清されてしまう。甲山派は金日成と抗日パルチザン運動をともにした、政権にとっての「開国功臣」に挙げられる。
1・21事態が起きた翌月、韓国が青瓦台襲撃の衝撃から立ち直れなかった時期、元心昌氏は突然ソウルに向かうことになる。(つづく) |