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2016年11月23日 20:20
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大韓民国の建国史(51)
現代戦の概念を知らなかった金日成

 国軍が全面南侵前日の6月24日の零時に非常警戒令を解除し、将兵たちに特別休暇を与えたのは不可解な措置だった。週末だったので、部隊兵力の半分が兵営を離れた部隊も少なくなかった。ほかにも大規模な部隊移動や高級指揮官の一斉交替など、国軍の防御態勢を崩す重大な措置が取られたことを、平壤側の謀略工作だったと見る専門家は少なくない。
平壤側は金九・金奎植などを南北協商に誘引した、成始伯による対南工作の成果は自慢した。だが、彼らが奇襲南侵に合わせて国軍の警戒態勢を崩す工作に成功したとしても、これは決して認めないはずだ。同族を殺戮した南侵を自認することだからだ。
国軍が開戦3日で兵力の半分を失ったにもかかわらず、金日成は大韓民国を敗亡させられなかった。これまでは戦争初期の国軍の敗退ばかりが誇張され、李承晩大統領が不当に非難されてきたが、戦史を冷静に顧みれば、全く違う戦争の姿が見えてくる。
韓国軍は武器と弾薬が乏しい中で勇敢に戦った。北韓側は、強力な武装にもかかわらず、パルチザンや遊撃戦レベルの思考にとらわれて現代戦、いや戦争そのものに対する概念をまったく理解せず、戦争に突入した。南侵に投入された21個連隊の半分の10個連隊は、毛沢東が送り込んだ朝鮮族部隊だった。南侵の主力だった北韓軍第4師団、5師団、6師団、12師団長は、周恩来、林彪、彭徳懐などと一緒に国共内戦を戦った八路軍や新四軍だった。
平壤駐在のソ連大使が6月26日にモスクワへ報告した電文は、北韓軍が「戦闘が始まってから前進部隊と本部の連絡は完全に途絶された。人民軍司令部は初日から戦闘を管理できなかった。指揮官たちは経験未熟で戦闘を管理できず、大砲や戦車の運営もできず連絡は途絶された」と報告した。南侵部隊の戦闘状況を見よう。
南侵作戦「先制打撃計画」を樹立したのは、第2次世界大戦の英雄ワシリエフスキー元帥だった。彼は南侵当日にソウルを占領するよう計画を立てた。38度線からソウルまでの最短距離は48キロ、T‐34戦車の最高速度は時速60キロだ。3、4時間以内、遅くとも6月25日の午後にはソウルに到達できたはずだったが、「人民軍」は3日かかった。彼らは戦車の特性を生かさず、歩兵部隊と共に動く支援火力として運用した。戦車が歩兵より前に行けば、戻って歩兵部隊と一緒に行軍した。人民軍の戦車は国軍の陣地に向かってナメクジのように這ってきたという。スターリンは意図的に機甲戦術を教えなかったのだろうか。
国軍部隊のうち、指揮官の判断で非常警戒態勢を解除しなかった東部戦線の6師団と8師団は、北側の全面南侵を撃退した。6師団は春川を奪還し、8師団も38度線まで追撃すべきかを問うた。西部戦線で全滅したと思われた第1師団も〓山を奪還し、敵の補給路を遮断。彼らは不幸にもこの状況を知らなかった米空軍の爆撃で甚大な死傷者を出し、後退せざるをえなくなった。17連隊も海州市に進撃した後、秩序正しく撤退した。国軍の全部隊が休戦まで、戦闘で敗北しても降伏しなかった。
国軍の奮戦により、東部戦線で3日間も前進できなかった北韓軍1軍団は軍団長の金光侠と師団長2人が左遷・降等された。金日成はソウル占領後、部隊の南進を停止させ3日間の休みを与えた。金日成はソウルを占領すれば李承晩政権は瓦解すると思い、金日成と朴憲永は米国が参戦しないと思っていた。       (つづく)

2016-11-23 3面
 
大韓民国の建国史(50)
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